法華経は何が説かれている 

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釈尊50年の説法は人々(衆生)(抜苦与楽)のための救済にあった。

 人々は四苦八苦の人生に呻吟するかと思えば、安易に享楽の世界に溺れ、折角この世に生を受けても、この世に尊き境界があることに気づかないまま短き人生を儚く終える。この儚き無常の世界の実体にしっかりと向き合うように導くことにより、その先にある仏の悟りの尊き世界があることを示して、苦を克服した悟りの境界、即ち大安心のもとに生きる方法を50年の間教えられたのが、釈尊の御生涯でした。
 実は釈尊は最初から法華経の悟りの真実を説こうと思われていました。その内容は何かというと 、「我が如く等しくして異なることなからしめんと欲して」であり、いかなる衆生も私のような存在となれでした。その事は決して不可能ではなく、皆の心には私即ち仏と同じ仏性を具有しているからです。誰にでも、仏になることは可能であるというものですが、既に仏の境界に成られた釈尊を仰ぎ見ても、その当時の人々にとっては夢物語に過ぎないものだったかも知れません。
 それより何より、衆生はそもそも、目の前の苦の克服がままならない。
 そこで先ずは此の苦に向き合いその苦を克服するため、苦の原因とも言える煩悩への頑迷執着を滅し、解脱を目指すことが説かれます。
 戒律を厳正にして八正道の実践を説かれ、その事により、仏の説く仏教の世界が垣間見て、多くの者は大いに仏道を目指す気運が高まります。しかし、これ等を修行する内に我が身の解脱ばかりに目が向き、他者の苦の克服には無関心になり、他者を救う利他の志が失せる者が大半を占めてしまいます。これが所謂自分だけの解脱のための小さな乗り物のような教え、小乗教と言われるもので、後の利他を大事な修行と見做す大乗の教えを信奉する者からは、批判の対象となります。
 その後、聴く者の性格や能力、功徳に合わせて(これを随他意といいます)次第に他の衆生をも救おうとする大乗の教えを説かれました。それは小乗の教えを合わせて42年間の説法でしたが、これは、法華経という大きな塔を建てるためのいわば準備の教え、つまり足場のような教えだったのです。これをほうべん方便の教え(仮の教という意味で権教)と言い、奈良仏教・浄土宗・真言宗・禅宗等の元となる経典が説かれたのでした。
 この42年の間に説かれた教えには決して釈尊の悟りそのままとは言えず、御本懐の教えではなかったとされています。
 後半の八年間に説かれた法華経において、聴く者の性格や能力、功徳によらず、釈尊の悟りのままを説かれたと言われ、故に法華経は随自意つまり、釈尊の悟りをそのまま御自身の心のままに説かれた教えといわれるのです。
 これらの五〇年の説法は華厳部、阿含部、方等部、般若部、法華部と大 きく分けて五つに分けられるとされています。

八年間の教え法華経

 釈尊は、いよいよ法華経を説くにあたって、いままでの42年間の教えは真実ではないと無量義経という経典で宣言されています。この経には、「四二年未顕真実」と、今まで説いてきた方便の教えは真実ではなかったと、はっきりと明示されています。更には、それから八年の間、法華経を説かれましたが、その法華經の初め「方便品」には「正直捨方便」とありますが、これは42年間の方便、仮の教えは正直に仏の言われたとおりに捨てなさいと説かれています。

 そして、この法華経には二つの大事なことが説かれていると、日蓮聖人は開目抄という御書で示されています。

1.二乗成仏(作仏)(小乗教の聖者声聞・縁覚の成仏)

 42年間の方便の教えでは、小乗の教えに偏し、自分が成仏出来ればよいと自己の解脱救済にのみ執着してきた声聞乘と縁覚乘の二乗の人々は、真の悟りは得られず、永久に成仏出来ないといわれてきた者達でした。
 しかし、法華経に来たって始めて、一念三千の法門により、どの様な者にも仏に成る可能性即ち仏性が存在するという原理を説き明かされて、このような頑迷な二乗も仏に成り得るのだとはじめて示されたからなのです。これにより、二乗に限らず女人も、愚者も、悪人も全ての者が成仏できる理を法華経においてはじめて説き明かされたのです。この事がまず他の経典に比べ法華経が有難い理由だと日蓮聖人は強調されたのです。

2.釈尊の本地開顕(お釈迦様の真実の姿を顕わされた)

 釈尊が説法を初めてから法華経の前半に至るまで、人々は釈尊をマガダ国の王子が修行を積んで悟られたものと思っていました。
 ところが、法華経の後半の寿量品でご自分が「久遠実成の本仏」であると告げられたのです。初めのない初めから、終わりのない終わりまで、つまり永遠の仏であり、過去・現在・未来に渡って人々を救済し続けていると述べられたのです。この事によって、真の仏(本仏)の存在と私たちの仏性の本質が明かされました。
 この事は、一念三千によって明かされた自分自身に具わる仏性は、永劫の時間と広大な空間の中に実在する本仏と法に円融同化しうるものとして、真に尊き輝きを発する存在たり得るものに昇華しうると示されました。それが成仏するということであり、その、仏の境界を我が身に実現することが、仏の望まれたことであり我々が目標とすべき事です。
※法華經は一部八巻二十八品からなっている。

この教えの大事な根幹(テーマ)は何か

 それは、「自分が如何に尊い存在であるかに気づけ」ということなのです。「我が如く等しくして異なることなからしめんと欲して」が仏の本懐であれば、「貴方は私のように尊き存在になり得る」が法華経のメッセージなのです。これを単純に捉える事なく、十界互具の一念三千の法理から正しく一切衆生皆成仏道の理を理解するということは、地獄、餓鬼、畜生界等をも包含する実相に基づく、人身観や世界観が確かなものとなるでしょう。
 地獄や餓鬼道のような忌むべき要素の具えているのが人間であると理解した上で、なお未だ自らが自覚していない尊き要素としての仏性を我が心に具えている事を指し示されたのが法華経であります。
 しかし、例えそのように示されようとも、愚かな我々凡夫には、その仏の真の尊ささえよく理解できないのです。特に釈尊御入滅から三千年近く経た今の末法といわれるこの時代は仏の御名も、その御教えにも触れたことのない者で溢れています。
 そのような方達にも、この事をお伝えせねば成りません。その大事をお伝えすること自体が大切な仏道修行なのです。
 今生に命を結び、而も人間として生きることは稀で貴重な一瞬であります。この大事な時間を無駄に過ごしてはなりません。
 仏は私たちにこの尊き仏性を開き、示し、悟らせて、その仏の世界に導き入れるためにこの世にそのお姿を現わされました。では、私達ははそのお教えを頂いて、いかに振る舞えばいいのでしょうか。
 「ああなるほど、私とはその様に尊い存在なんだ。ならばもっと自分の思いを主張して、好きなように生きてやろう」としか思わないとしたらそれはまだ、御仏の本当の真意を理解できているとは言えないのかも知れません。少なくとも「一心に仏を見たて奉らんと欲して」仏を仰ぎ見ようとはしていない者と言えるでしょう。実はこの様な反応はまだまし   な方で、この事にさえ無反応であったり、悪意を抱くのが末法の人々なのかも知れません。それでは折角の仏様と同じ尊き仏性が持ち腐れとなるばかりか、堕地獄の道筋を歩む結果となるやもしれません。
 今こそ、仏様のご意志に基づいて、この世に弘めるお手伝いをさせて頂く時ではではないでしょうか。只ひたすら、あらゆる人に対して尊崇の念を持って、「貴方の存在は尊くかけがいのない存在で、いずれその事に気づき、久遠実成の釈迦牟尼仏がその尊さの根源だと解れば、きっと貴方も真の覚りの世界に存在する身となるでしょう」と告げることがその振る舞いと言えるのです。これが法華経の根本姿勢であり、その事は常不軽菩薩品という経典の中に説かれています。
  そこには不軽菩薩が「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」と道行く女人にも僧侶にもあらゆる人々に告げて、仏意を示されたことが説かれていますが、その様な行為こそが、真に人を尊崇尊重していることとなり、そこにこそ本来の平等があると示されたのが法華経の行者の理想とする行いすなわち「振る舞い」が示されているのです。
 これが私たち衆生にとっての一番大事な精神であり、見習うべき振る舞いとされ、これこそが、法華経の精神の実践であり、御仏の御心を伝える菩薩行なのです。
 そしてこれを、不軽菩薩の行といい、その大元の御教えが一念三千の法門であり、仏がこの世に出現せられた大目的なのです。

法華経を学ぶに際しての心構えは

 その法は智慧第一の舎利弗尊者にでさえ、その「意趣解り難し」と述べて、法華経の難信難解であることを予告されました。この法華経に対する心構えとして、我執・我慢に満ちた凡夫の智慧を捨てることを促されているのですが、現代社会は、自分の頭で考えることを奨励し、むしろ仏教でそぎ落とし解脱を目指した煩悩までも、個人のこだわりならばと許容してしまっています。そして、それが昂じて苦しみ喘ぐことになるようです。その延長線上で仏の教えも、小賢しく自分の思慮の中に矮小化して理解しようとするのですが、それではますます仏の「意趣解り難し」となってしまいます。門祖日隆上人は我が智慧を捨て素直なる稽古に励む宗旨として「無智宗」の宗名を説かれました。仏の教えとは、仏智を得ることもさることながら、人を救う功徳の重要性を説かれているのです。しかしお金が無ければ貧しいものを救えず、力が無ければその荷を背負うこともままなりません。故にそこに信仰により仏の叡智と功徳に拠るのです。仏の智慧を得るとき、凡智を捨て世と法門される。それは、コップに清水を汲み飲もうとすれば、まず器を空にして綺麗に洗うはずです。無量無辺、未曾有の法である法華経を修行せんとする我らは、小賢しき凡智を捨てて素直に御仏の智慧をいただく姿勢を整える必要があると考えます。

※四苦八苦とは

 生苦・老苦・病苦・死苦の四苦に、怨憎会苦・愛別離苦・所求不得苦・五陰盛苦の四を加えて八苦という。怨憎会苦とは現実の世界にあっては怨憎せる人と一緒に会合したときに受ける苦痛。愛別離苦とは自己の愛するものと別れなければならない苦痛。所求不得苦とは自己の欲求するものを獲得できない苦痛。五陰盛苦とは有情(衆生)を形成する色・受・想・行・識の五陰(蘊)から生じる身心の苦悩

※ 八正道とは

 涅槃に趣向するための八種の方法。
(1)正見=正(ただ)しく四諦の道理を見る。
(2)正思惟=正しく四諦の道理を思惟する。
(3)正語=妄語等を離れ正しい言葉を使う。
(4)正業=殺生等を離れ、正しい行いをする。
(5)正命=身口意の三業を清浄にし、正しい生活を行う。
(6)正精進=仏道修行に励む。
(7)正念=邪念をはらい正道を念ずる。
(8)正定=清浄なる禅定を行う。以上の八正道は主に三蔵教(小乗)の修行方法であるとされる。

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