日蓮正宗批判 創価学会員への提言
~ 前 略 ~
3 日蓮正宗の教義に欺され続けて来た学会員
日蓮正宗の基本的三本柱とは何か?
日蓮正宗のみが正しく他の宗派が全て邪教の根拠は
- 二箇相承の有無
- 板曼荼羅の有無
- ①②があるからこそ唱えられると言っていい日蓮本仏論
の三つの柱であろう。
しかし、幸運にも、破門させられたことにより、創価学会はこの①②の呪縛から解放されたと言ってよく、この①②そのものを検証し、特に①を根拠にした口伝(金口)によらなければ導き出せない(ねつ造し得ない)日蓮本仏論について、素直に経典と御書に書かれているとおり読ませていただき、日蓮聖人のお心のままに立ち返るべきである。
抑、食料はもとより紙・墨全てが欠乏していたと言っていい流難中においても、まさしく命を削ってお書き遊ばされたあらゆる御書は、久遠実成の釈尊こそが本仏法王であり、最も尊崇すべき本尊と明確にされているのは、正宗の僧でさえ認めざるを得ない。しかるに、日蓮正宗では、その釈尊を末法に用のない脱益(抜け殻)の仏として蔑み、日蓮聖人こそが久遠元初自受用報身仏の再誕、末法の本仏であるといって、独特な異流の法門を作りあげてきた。これを日蓮本仏論というが、「本仏」とは迹仏に対する語で、本地の仏、本門の仏、本覚の仏等と説明されるが、更に簡単にいうと本体仏のことで、諸仏の根本身を言う。そもそもは法華経の如来寿量品で、釈尊が自らの本地である久遠実成の因果を顕して、一切諸仏を分身とし三世十方の仏の本体なることを明かして、本仏を顕現した、法華経の中心命題とも言うべき法門である。
この事については、爾前権教の各宗派が『本尊に迷い』弥陀や大日を本尊本仏と崇めることを責め、久遠実成の釈迦牟尼如来こそを本尊とせよと明言され続けており、御遺文を精査しても、釈尊こそが本仏であり、まして況んや日蓮本仏論などでてはこない。
であるからこそ、正宗の依拠する正宗江戸期の日寛の御書講義録とも言うべき「当体義抄文段」でも「問う、久遠元初の自受用身とは即ちこれ釈尊の御事なり。何ぞ蓮祖の御事ならんや。蓮祖はこれ本化の上行菩薩なり。何ぞ久遠元初の自受用身といわんや。」と常識的な問いを設定している。
ところが、その答えとして
「答う、これ当流独歩の相承にして、他流の未だ曽て知らざる所なり云云」(文段 集702)と述べ、日蓮聖人を久遠元初の自受用身、つまり『御本仏』とみることが「当流独歩の相承」であると記されている。
この「当流独歩の相承」こそが間違いの元で、正当性を喧伝している「二箇相承」由来の口決相承・金口相承つまり「当流独歩の相承」は偽書「二箇相承」を根拠としている故に、全ての根拠を失うと言っていい。
まず明らかに偽書と解る口伝書の実例に触れてみる。
それが「産湯相承事」という日興上人が筆記したとされる、日蓮聖人御入滅の五日前の弘安五年十月八日付けの口伝書である。この口伝書には
「日蓮の日は即日神、昼なり。蓮は即月神、夜なり。月は水を縁とす、蓮は水より生ずる故なり。 又是生とは日の下の人を生むと書けり。日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。 今久遠下種の寿量品に云く「今此三界 皆是我有〈主君の義なり〉、其中衆生 悉是吾子〈父母の義なり〉、而今此処 多諸患難〈国土草木〉、唯我一人 能為救護〈師匠の義なり〉」と云へり。三世常恒に日蓮は今此三界の主なり。
日蓮は大恩「以希有事 憐愍教化 利益我等 無量億劫 誰能報者」なるべし。
若し日蓮が現在の弟子並に未来の弟子等の中に、日文字を名乗の上の字に置かずんば、自然の法罰を蒙ると知るべし。
予が一期の功徳は日文字に留め置くと御説法ありし儘、日興謹て之を記し奉る。
聖人の言く、此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決唯授一人の秘伝なり、神妙神妙とのたまいて留め畢ぬ。
弘安五年可壬午十月八日 日蓮在御判」
と記されているため、明白に日蓮聖人ご自身が自分は本仏であると明言している文証だと正宗は主張し、今なお正宗内部の法門では頻繁にこれを挙げて法門が為されているようだ。確かに「日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。」「三世常恒に日蓮は今此三界の主なり」と記されているので、なるほどこれが偽書でなければ、正宗の者が日蓮本仏論を思い込むのも少しは仕方ないかとも思えるのだが、この文章の中には偽書である証拠が歴然としているのである。
偽書検証の一 肝心の日蓮聖人の出家名を間違えている。
「予が童名をば善日、仮名は是生、実名は即ち日蓮なり。」
とあり、日蓮聖人の出家名(仮名)が「是生房」であったという前提で書かれており、それを基に、
「日蓮の日は即日神、昼なり。蓮は即月神、夜なり。月は水を縁とす、蓮は水より生ずる故なり。 又是生とは日の下の人を生むと書けり。日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり」
の文が続くのであるが、そもそも、日蓮聖人の出家名(仮名)は「是生房」ではなく、「是聖房」であった。これは、日蓮聖人ご自身が「授決円多羅義集唐決」の自筆写本の奥書に 「是聖房」と署名されていることから、漢字で書けば「是聖房」が正解であると解り、日蓮聖人がご自分の名を間違えて覚えていたとは考えられないので、この「産湯相承事」はこの一事を以てしても偽書であることが明白である。
因みに、この日蓮聖人の出家名(仮名)は音で「ぜしょうぼう」と伝えられたが、漢字では正確に伝わらなかったようで、日朗門流の相伝書「当宗相伝大曼荼羅事」には、「是生」(本尊論考資料P二八〇)とあり、身延の相伝書である日意の「日蓮大聖人五字口伝」には「仮名は是性房」とあり、正確には伝わっていないにしても、「是生とは日の下の人を生むと書けり」として論を展開する場面で御自身が間違えて口伝することはあり得ず、これだけでも此の書の偽書なる事が明らかである。
偽書検証の二 御真筆の重要御書と「産湯相承事」はその思想が矛盾している。
「産湯相承事」では
「日蓮が弟子檀那等、悲母の物語と思ふべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり」
ととんでもないことを日興上人に口伝してることになるが、これは明らかに、日蓮聖人のこれまでの御指南に反する言葉である。
日蓮聖人は御真筆の御書「撰時抄」において、慈覚大師円仁が法華経と大日経のどちらが優れた経典かに迷い、ある夜に日輪を弓で射る夢を見て、大日経が優れていると判断したことを批判して、釈尊、天台大師、伝教大師の経釈を引き、「夢を本にはすべからず」と述べて、あくまでも教義は経典や釈文を根本とすべきであり、夢で見た内容を教義の根本にすべきではないと言っているからだ。
偽書検証の三 経文の誤引用
「今久遠下種の寿量品に云く『今此三界皆是我有 主君の義なり 其中衆生悉是吾子 父母の義なり 而今此処多諸患難 国土草木 唯我一人能為救護 師匠の義なり』と云へり。三世常恒の日蓮は今此三界の主なり」
ここでは日蓮は三徳兼備の仏と説いているつもりのようであるが、引用する経文は「久遠下種の寿量品」となっているが、この経文は法華経「寿量品」ではなく、法華経「譬喩品」の経文である。これが、単なる書き誤りとすれば、日蓮聖人も、日興上人も二人して、勘違いでもしたというのか。噴飯もののお粗末な偽作と言えよう。ただし日蓮正宗側は、これは「誤記ではない」と言い張るようだ。いわく、久遠下種の寿量品は、「文上の寿量品」のことではないと、困ったときの常套句「文上・文底論」「外用、内証」を展開してくるようである。それにしたところで、「文上・文底論」で「久遠下種の寿量品」が、法華経「譬喩品」の経文になるのか解らない。是非この説明を日蓮正宗は公にするべきであろう。
偽書検証の四 支離滅裂な日蓮本仏論を展開
『産湯相承事』には
「我が釈尊法華経を説き顕はしたまひしより已来、十羅刹女と号したてまつる。十羅刹と天照大神と釈尊と日蓮とは一体異名にして、本地垂迹の利益広大なり」とあり、
十羅刹女と天照大神と釈迦牟尼と日蓮が一体であるという奇怪な教義は日蓮聖人の御遺文には前例がない。
この文意は、十羅刹女と天照大神と釈迦牟尼仏と日蓮が一体であり、名前だけが異なっているだけである、という事のようだ。
十羅刹女というのはもともと鬼神であったのだが、法華経に縁したことによって法華経の行者を守護する守護神となったと御遺文には説かれている。「諫暁八幡抄」には、
「彼々の仏と神とは其の身異体なれども、其の心同心に法華経の守護神なり」と説かれており、釈迦牟尼仏と守護神は、一体ではない。誠に奇怪窮まりない文章であるが、ここに説かれている「日蓮本仏論」が、独特の矛盾を呈している。
「此の少人は我が為には上行菩提菩薩なり。日の下の人の為には生財摩訶菩薩なり。 亦一切有情の為には行く末三世常恒の大導師なり」
「善日童子、末法教主勝釈迦仏と三度唱へて作礼して去し給ふ…」
「本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給ふ」
「我が釈尊法華経を説き顕はしたまひしより已来、十羅刹女と号したてまつる。十羅刹と天照大神と釈尊と日蓮とは一体異名にして、本地垂迹の利益広大なり」
「三世常恒の日蓮は今此三界の主なり(仏と聖人同体の口伝)」
こうして見てみると、日蓮は釈迦牟尼仏に勝る末法の教主であるということが説かれていたかと思うと、日蓮聖人と釈迦牟尼仏は「一体」「同体」であると言う。しかも(先に述べたとおり、日蓮聖人と釈迦牟尼仏は十羅刹女と天照大神まで「一体異名」であるとなっている。
つまり「産湯相承事」の中の前と後ろで「日蓮本仏論」の説き方が異なっている。日蓮聖人は釈迦牟尼仏に勝る本仏と言ったり、釈尊と日蓮聖人とは一体異名と言ったり、支離滅裂な日蓮本仏論と言っていい。内容的には、「日蓮本仏論」だとしても、釈迦日蓮別仏(勝日蓮劣釈迦)と釈迦日蓮一体では、甚だしい矛盾であると言わざるを得ない。
この取り留めのない日蓮本仏論は未だに正宗は駆使して、あるときは釈尊を口を極めて軽しめたかと思うと、釈尊が本仏の動かしがたい文証に触れると、この釈尊と日蓮大上人は一体であると何食わぬ顔で誤魔化す事が多々あるので注意を要する。
さらに奇抜で違和感満載なのが、日蓮聖人が出生したときの産声が「毎自作是念…」という、法華経寿量品の自我偈を唱えたというのである。如何にも、日蓮本仏の権威づけを狙って偽作したのであろうが、かえってこの口伝の信憑性を損なっているのに気づかないのであろうか。こうして見てみれば、「産湯相承事」の内容は、全く矛盾だらけであり、おおよそこの文書は、日蓮聖人の教説、口伝であるとは、到底認められない。
日蓮聖人の確実なる遺文には、当然のことながら自らが本仏だなどと述べているところは一ヵ所もないので、「産湯相承事」『本因妙抄』注解①『百六箇相承』注解②本尊七箇相承注解③を「宗祖直受日興」と盲信し口伝書から曲解する以外になかったのであろう。
~ 中 略 ~
詳細については只今出版準備中でありますので、しばらくお待ちください。
目次
以下のような内容が書いてあります。
- 1 はじめに
- 2 学会員の悲惨な現実
- 3 日蓮正宗の教義に欺され続けて来た学会員
- 4 六老僧指名と矛盾する二箇相承書
- 5 「本門戒壇の大御本尊」と称する板本尊の真贋論争について
-
(一) 『聖人御難事』は板曼荼羅の文証にはなり得ない
(二) 板曼荼羅とはいかに怪しいものか
(三) 板曼荼羅を根拠に日蓮本仏論を唱える愚 - 6 日蓮本仏論について
-
(一) 日蓮本仏論の御遺文上の根拠への批判
ア 日蓮聖人は「上行菩薩再誕」こそが正統
イ 竜口御法難は発迹顕本の証拠とならない
ウ 法論は誰もが認める御書資料を論拠とすべし
エ 大石寺系論者が御書を引用してきても必ず前後を読み確認のこと
(二) 文上・文底(外用・内証)で逃げなければ成り立たない御書解釈
(三) 地涌千界出現本門釈尊為脇士』の訓じ方について
ア 大石寺派の誤った訓じ方と日興上人の文証
イ 御書は前後の脈絡を考えて判断すべし
(四) 種脱相対について
(五) 妙法五字は誰が説いたのかについて
(六) 久遠元初について
(七) 日寛が完成させた「日蓮本仏論」は中古天台のパクリでは?
○ 何故「五人所破抄』で非日蓮本仏論を日興上人は責めていないのか
○ 何故「五人所破抄』に見る違見(不相伝)が起こったのか
(八) 「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし」について
(九) 「白法隠没」について
(十) 題目口唱正意について
(十一) 『教主釈尊より大事なる行者』の意味について
(十二) 仏は大妄語の人について
(十三) 事実無根の日扇上人批判を破折す
ア 三途不成説批判の矛盾
イ 日扇上人が黒死相であったとの捏造について - 7 まとめとして





