クリスマスをはじめとする特定宗教の祭事等に関する
放送の中止・自粛についてのお願い(要望書)
1 はじめに
業務ご繁忙の砌、突然に一書を呈し小意を披陳し、お願いをさせて頂きますことをお許し下さい。
私は昨年も同様の書簡を書かせて頂きました、上記住所に本拠を構える宗教法人の代表役員を務める者であります。当宗は法華経「本門立正宗」と名乗り、純粋に日蓮聖人の教えを現代に広めることを標榜し、活動をしているものです。
先師である中川日哲上人(故人)とその師、橋本日種上人(故人)は、戦時中、寺の金物仏具を鉄砲玉にするから拠出せよという大政翼賛会からの圧力に対し、「たとえ敵国人たりといえども、尊き仏具が人の命を奪う目的の銃弾になると言われては出家の身として協力は出来ない。他宗の僧侶や牧師が皆喜んで従ったといえど、賢は馬鹿のまねは出来ぬ」と叱責したことで特高警察に睨まれ、更に国家神道政策による天照皇大神のお札の祭祀強制をも拒否したため、「治安維持法違反、不敬罪」などに問われ、終戦までの2年間、牢獄に繋がれました。取り調べは過酷を極め「すぐにでも銃殺出来る」と脅されながらの拷問にも遭うも最後まで屈しなかったという経歴を有しております。そして、罪人のまま終戦を迎えたため、終戦後GHQからも取り調べを受けたのですが、その際に、罪科のない一般民衆を大量虐殺した大空襲と原爆投下を「口では愛を唱えながら、異教徒は虐殺をするキリスト教国アメリカは仮面を被ったジェントルマンである」とキリスト教の本質を糾弾したのでした。 しかし、その時の取調主任官E・H・ネルソン氏はむしろ「あなた方こそ真の宗教家だ。」と感激し、握手を求めてきたそうで、この様に権門に屈せぬ歴史を有している事を誇りとしているのであります。(詳しくは、別添「本門立正宗の原点」参照)
故に、今も世間や時代の風潮に迎合することなく正しき釈迦牟尼如来の御本懐である法華経を日蓮聖人が如く、弘め守らせて頂くことを貫く宗門でありたいと考えております。そのためか、特に信教の自由について、強い関心を持っており、各方面にも、あらゆる場面でなされる宗教行事、とりわけ、キリスト教の祭事であるクリスマス行事の是非についてご意見を申し上げておる者であります。
2 お願いの概要
年末はNHKを始め各放送局はクリスマス関連の音楽、飾り付けの作り方等を教会関係者が信者とともに楽しむかのように放送されているのですが、そもそも公共の電波を使って、特定の宗教行事をこのように肩入れするがごとく取り扱うのは、その宗教に強い違和感を感じる者にとって、大変苦痛を伴うものであり、特に幼児番組において、当たり前のようにクリスマスがテーマの構成で番組が垂れ流されているのは、家庭内での宗教的しつけを侵害し、国民の信教の自由をないがしろにした宗教的ハラスメントに当たるのではないかと思い、ここに強くこのような番組の廃止および中止を要望するものであります。
また、オリンピック応援歌「パプリカ」においては「ハレルヤ」が連呼されますが、コロナによって開催が延期となり、これを聞きたくないと思っておりましたので正直ほっとしているところです。これは、キリスト教の神「ヤハ(ヤハウェ)」を「ハレル(褒め称えよ)」の意味であり、アーメンなどとともに、キリスト教に残る代表的なヘブライ語の祈りの一つであります。このような宗教的な言葉を来年無事にオリンピックが開催されれば、なぜ公共放送で聞かされなくてはならないのかと、憂鬱になります。英語版にはこの言葉を「パプリカ」に換えて歌われているようですが、これは外国人はごまかせないとでも思ってのことならば、大変日本人の宗教心を馬鹿にしたことではないのでしょうか。
そもそも公共放送の場で、今なお積極的に布教活動を繰り広げているキリスト教の祭事であるクリスマスを素材にその布教を後押しするがごとき放送をしていること自体、放送法に抵触し、国民の信教の自由を侵すことになるのは明白であります。しかもそのキリスト教は、後述の通りオウム真理教も裸足で逃げ出すほどに、非キリスト者を殺害、弾圧、搾取し続けた宗教であるのは、少し歴史と聖書を紐解けば歴然としています。一例として、415年、キリスト教徒が、声高にイエスの復活の奇跡や奇跡的な難病治癒を吹聴し布教したことに関し、アレクサンドリアの女性哲学者ヒュパティアが「迷信を真実として語るべきではない。」と批判したところ、総司教キュリロスの命令で修道士たちによって捕らえられ、教会に連れ込まれたあと、彼女は裸にされ、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉は削ぎ落とされて殺害されました。指示したキュリロスはその「功績」を讃えられ、教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられているようです。(ヒュパティアを主人公にした映画「アレクサンドリア」 参照)
このように、キリスト教に非を唱えるものには容赦はなく、故に反対者を殲滅してきたからこそ、批判者がいなくなり、一人勝ちの世界が現出しているのかもしれません。
しかし、後述の通り、その歴史と実態はおぞましいばかりです。そのようなことに触れもせず、幼児にクリスマスは当然楽しませるべきものと決めつけ幼児番組を作り、このような歌も堂々と流すのは、非キリスト者へのハラスメントであり、信教の自由と放送法に抵触し、キリスト教等に大いなる違和感を持つ他宗の人々や無神論の人たちへの冒涜となっているのです。NHKをはじめとする放送業界の、当たり前のようにクリスマスを楽しむがごとき放送は、国民の信教の自由をないがしろにした宗教的ハラスメントに当たると気づいていただきたいのです。
3 当宗の信仰に対する基本的考え方について~何故宗教的純粋さを求めるのか~
釈迦牟尼如来の御本懐である法華経の重要な御教えに『一念三千』というものがあります。これを詳しく解説するとかなりの長文になってしまいますが、我々凡夫の一刹那の心の中にも、地獄から仏界に至るまでの十界、つまり地獄界(最下極苦の世界)・餓鬼界(飢餓・貪りの世界)・畜生界(愚痴の世界)・修羅界(好戦嫉妬の世界=私心によって正邪を曲げる)・人間界(平和の世界=善にも悪にも流される)・天上界(喜楽の世界=邪心はないが実相を知らず)・声聞界(教を聞き、この世の無常を悟る者をいう)・縁覚界(飛花落葉を見て自ら無常を悟る者をいう)・菩薩界(他者を救おうと仏をめざす修行者)・仏界(理・智・悲、円満な永遠普遍の霊格者)の十の境界が存在し、その十界の一つずつの境界に又、十界が存在する。つまり、十界に互有 (十界互具)している故、極悪非道の者にも仏性が有り、仏界も又他の九界の要素を持っている(仏界所具の九界)と云う内容で、他の仏教諸宗も借用(盗用?)しているのですが、その教えの内容は全ての命ある者は仏になる可能性《仏性》を秘めているという法門です。 この事を、敢えてシンプルに云うと、「あなたは仏に成り得る尊き存在である。その事に気づけ。」という御教えで、その事は勿論、己の尊さばかりではなく、他の全ての存在(生命)もまたその心のなかに「仏性」が実在する尊き存在(生命)であるというものなのです。故に、全ての人の仏性に礼拝合掌して、その事を気づかせる但行礼拝をされ続けた、不軽菩薩等の菩薩行が説かれているのが法華経という経典なのです。この教えを盗んだ者等の中には、これを汎神教的に捉えて、迷える凡夫もそのままで皆仏と短絡して仏道修行も不要などと云う愚かな説を唱える者も出てくるのですが、そもそも、仏の御名も聴かず、その存在に気づきさえしなくなった末法と言われる現代では、我々凡夫の心のなかにも「仏性」があると云われたところで、その本当の姿を知るよしもありません。この様な 我々凡夫のことを「無明の凡夫」と言い、たとえ 我々が成仏できる由縁は、仏性が己心(自分の心)に備わっているためではあるという大事な有難い法門を聴いても、本当の仏つまり本仏である「久遠実成の釈迦牟尼如来」のお姿に出逢わなければ、いつまで経っても自分の心の中に存在する尊き仏性も解らず終いです。つまり、(結)果たる本仏(仏果を成じた根本仏)に出逢い、その導きの光を浴びなければ、いつまでも我々凡夫は無明のままなのです。
故に、何より「まず本仏ありき。」であり、本仏である「果」より、仏に成る前の仏性という「因」の状態の我等凡夫に及ぼされる広大な智恵と働きと慈悲により、初めて成仏(尊きものとなる可能性があるにすぎない自己が真に尊き存在になること)が可能となるのです。つまり、迷える凡夫はそのままで皆仏であるはずはなく、仏に成る可能性があるにすぎない存在が我等なのです。故に「見仏の因縁」(御仏にお会いする・出逢う機会、ご縁)こそが大事であり「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず。」(法華経寿量品)の実践として、「南無妙法蓮華経」と唱えさせて頂くのです。
ですから、常に我等が真剣に向き合うべきは、本仏である「久遠実成の釈迦牟尼如来」であり、信じ実践させて頂くのはその事が説かれている「妙法蓮華経(=法華経)」であり、その「妙法蓮華経」に帰依し信順する事を誓い、「南無(帰依するの意)」を冠し「南無妙法蓮華経」と唱えさせて頂くのです。
そもそも我等は、否応なく多くの尊い他の命を頂いて生かさせてもらっております。故にその事に感謝もせず、心にも止めず、生を終えると堕獄(地獄行き)は必定とも言われております。あらゆる尊き命への感謝と追善回向も、その尊き仏性の本質・根源である本仏に正面から対峙し帰依し感謝してこそ伝わり、成就するのであるが故に、その事にも日々感謝の念を以て「南無妙法蓮華経」と唱えさせて頂かなければならないと考えております。
その様な信仰生活を信者の子弟の幼い者にも、実践してもらいたいと考えておりますが、だからこそ、狐・狸等の動物の類がご神体のものや、元を正せば悟りを得ていない何かの功績や厄除けのため祀られている人物をご神体にしている神社、また、仏教でも釈尊(釈迦牟尼如来のこと)が法華経を説く以前に方便(仮)の教えとして説かれた阿弥陀仏や大日に闇雲に手を合わせることのないようにさせ、常に「久遠実成の釈迦牟尼如来」に対峙する(正面から向き合った)信仰を理想としています。清き水を頂くのに汚れたコップを使わないように、私たちは常に清純無垢な信仰を目指しているところですが、その様な信仰生活の中に無遠慮に、いつの間にか土足で入り込んでくるかの如くの宗教色のある放送は誠に不愉快極まりないものであります。まして況んや、宗教の名において、何千万いや遙かに億という数の人々を殺害し傷つけ、奴隷として、または非植民地の民として搾取し続けてきたキリスト教というカルトの祭事クリスマスなど、もっての外で、強い違和感を覚え、まさにこの様な放送は宗教的ハラスメントに当たるのではないかと考えるのです。
4 キリスト教というカルトについて~では何故このキリスト教を問題視するのか。~
(1)キリスト教聖書の世界観の問題点
キリスト教の歴史(聖書の世界観にとらわれた歴史)は、血で血を洗うような凄惨な戦争と虐殺が繰り返された歴史であることは否定しようもないことです。
例えば、15.6世紀における南米をはじめとする新大陸発見に際しては、キリスト教徒は新大陸を「旧約聖書」にある「約束の地」だと確信し、非常な宗教的情熱を抱いて乗り込んだそうです。その証拠に「エデン」の住民が話すに違いないとされたヘブライ語とアラム語の通訳まで同行していたそうなのです。しかし、そこには従順で人のよいインデオ達が平和に暮らしていました。この落差がキリスト者達の「間近に迫り来る 終末への不安から、終末までに異教徒(ここでは従順で人のよいインデオ達)を征服し、キリスト教に改宗させ、更にアンチ・クリスト(反キリスト教徒)を殲滅させなければならない」という、まさに宗教的情熱と意気込みに火を付けたのです。
その結果、中南米の諸国と南米大陸の全てで、ナチスのユダヤ人虐殺など、大したことはないと思えるほどの大虐殺と奴隷化が長期間にわたって繰り広げられました。
その惨状については、ラス・カサスというドミニコ会修道士が「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(岩波新書)という本に簡潔ではなく丹念に記されています。その内容について、一部摘録すると「スペイン人が最初に植民にしたのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)だった。インディオたちは、従順で無欲であったため、たちまちのうちにスペイン人に土地、財産を略奪され、女、子供を奴隷として奪われた。あまりのことに、インディオたちは反抗しようと武器を取る。・・「彼らは武装したものの、武器と言えばまったく粗末なもので、したがって、インディオたちの戦いは本国における竹槍合戦か、さらには、子供同士の喧嘩とあまり変りがなかった。キリスト教徒たちは馬に跨がり、剣や槍を構え、前代未聞の殺戮や残虐な所業をはじめた。彼らは村々へ押し入り、老いも若きも、身重の女も産後間もない女もことごとく捕え、腹を引き裂き、ずたずたにした。その光景はまるで囲いに追い込んだ小羊の群を襲うのと変わりがなかった。彼らは誰が一太刀で体を真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落せるかとか、内臓を破裂させることができる「ふつう、彼らはインディオたちの領主や貴族を、地中に打ちこんだ四本の棒の上に細 長い鉄棒で作った鉄灸のようなものをのせ、それに彼らを縛りつけ、その下でとろ火を焚いた。すると領主たちはその残虐な拷問に耐えかねて悲鳴をあげて、絶望し、じわじわと殺された。」
「私はキリスト教徒たちが無数の人びとを生きたまま火あぶりにしたり、八つ裂きにしたり、拷問したりしているのを目撃した。その殺し方や拷問の方法は種々様々であった。また、彼らは生け捕りにしたインディオたちをことごとく奴隷にした。奴隷にした男は鉱山に、女は農場に連れていかれた。しかし、いずれもほとんど食物が与えられず、苛酷な労働と飢えのために、次々に死んでいった。」
結局、エスパニョーラ島には約三百万のインデオが住んでいたのに、生き残ったのはわずか三百人だったという。これでは労働力が不足してしまうので、スペイン人たちは、近くのバハマ諸島のインディオを奴隷として連行してきた。バハマ諸島は大小合せて六十の島からなり、人口は総計五十万以上いたが、生き残りはわずか十一人になってしまった。
同じような残虐な行為が島から大陸全土に広がっていった。
「スペイン人たちは、身重の女や産後間もない女、それに、老人や子供など老若男女を問わず全員インディオたちを生け捕りにし、先を尖らせ、焦がした棒がいっぱい埋め込んである穴の中へ放り込み、その穴の中は、しまいには串刺しになったインディオたちで一杯になった。」
「村や地方へ戦いをしかけに行く時、すでにスペイン人たちに降伏していたインディオたちをできるだけ大勢(一万人か二万人)連れて行き、他のインディオたちと戦わせた。彼らには食事を与えず、その代り、そのインディオたちに、彼らが捕えたインディオたちを食べるのを許していた。そこでは人肉を売る店が現われ、スペイン人の立会いのもとで子供が殺され、焼かれ、また、男が手足を切断されて殺された。」
「ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて鹿か兎を狩りに出かけた。しかし、獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹を空かしているだろうと思い、母親から幼子を奪ってその腕と足を短刀でずたずたに切り、犬に分け与えた。犬がそれを食いつくすと、さらに彼はその小さな胴体を投げ与えた。」
以上のような、読んでいてうんざりするような話が次から次とつづくのです。
ニカラグアには100万人以上のインデオがいたのに、5千人しか残らず、グワテマラは、400万人から500万人が殺され、中南米だけでトータル、40年間に1200万~1500万人が殺されたであろうとラス・カサスは推定しているのです。その十年後に書かれた「年代記」には、殺されたインデオの人数は4千万人から5千万人に増えています。
これは「宗教が悪いのではなく携わった人間の責任」と、よくキリスト教徒は言い訳をしますが果たしてそうでしょうか。
上記のように、14世紀以降、大陸発見の大航海時代に入り、西洋の白人によりあらゆる土地が植民地化され、その土地の原住民達は、まるで獣のように殺され、奴隷とされていったのですが、さすがに良心の呵責を覚えた宣教師が、時の法王パウロ三世に、彼ら有色人種をどの様に見立てて扱えばいいか尋ねたところ、法王は事も無げに「彼らは獣と見なしたら良い。ただし、キリスト教に改宗したら人間と見なせ」と答えたという文章が最近バチカンで発見されたと言われています。
この様な考えの基に西洋各国は、全世界を毒牙にかけていったのですが、アメリカ合衆国そのものも1000万人程いたインデアンを虐殺淘汰して出来た国と言われています。清教徒がアメリカ大陸に渡った当初は、飢えと寒さに苦しみ、その年の冬を越せるか危うい状況でしたが、インデアンのある種族に親切にされ、生きながらえるのです。ところが、その酋長が死ぬと、その息子を殺しその首をさらし、その妻子を奴隷として中南米に売り、その種族の残った者を虐殺したのを始まりに、インデアン1000万人の内の95%を虐殺淘汰し、インデアンの食料である大陸に充満していたバイソン(野牛)と空を暗くするほどいたという旅行鳩も絶滅寸前まで殺し続けました。
この様なことを正当化する言葉として1845年頃、米人コラムニスト、ジョン・オサリバンが言い出した「マニフェスト・ディスティニー(神の与えた明白な使命)」が叫ばれ、キリスト教的理念実現のため当然の行為として、むしろ推奨されていました。
その証拠として、このインデアン虐殺について『白鯨』の著者ハーマン・メルビルは「我々米国人こそ現代のイスラエルびとだ」と言っています。この「イスラエルびと」とは、後述の聖書の一節に出てくる旧約聖書ヨシュア記八章二七節「その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである」のことであり、残虐な神に命ぜられるまま、強姦と略奪と虐殺をほしいままにしてきた人々のことです。
以下に、その事を示す旧約聖書の一部の要約を上げてみます。
【旧約聖書にみる神による大量殺人 (出エジプト前後の神とモーセ)】
- ア ファラオがユダヤ人の出国を認めないので、神が、その年にエジプトで生まれたユダヤ人以外の赤ん坊を全員殺した。
- イ モーセが、ユダヤ人をエジプトから出国させる際に神が、追跡してくるエジプト軍を全滅させた。
- ウ 十戒を授かりシナイ山から下山したモーセが「黄金の子牛」を鋳造して、どんちゃんさわぎをしている民をみて、その日のうちに3000人を殺害した。
- エ モーセに盾突いたコラなど250名を神が殺害した。
- オ コラが殺された翌日、「主(神)の民を殺した」とモーセとアロンを非難したユダヤの民14000人を神が殺害した。
- カ 異教徒の弊風に染まったユダヤ人を神の命令で2400人殺害
- キ カの異教徒の弊風に染まったのは、ミディアン人のせいであるとして、神がモーセに復讐を命じ、モーセは「処女以外皆殺しにせよ」と殺戮命令を下す。
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※兵士が女子供を生かしたままにしたことを神が怒り「戻って男子は皆殺せ、男と寝た女も殺せ、男を知らない処女はおまえ達のために生かしておけ」とモーセを通じて命じた。その上で略奪した羊や牛・財宝・処女をどう分配するか、民数記31章に詳細に記述されている。
- ク モーセ没後、神が、後継者ヨシュヤに命じ、カナン制圧戦争を指揮して、カナン人の大量殺戮を行った。
以上のように、神は、異教徒と神に逆らうものに容赦はないのです。この神を信じる者は、神の手を煩わせるまでもなく、自らの手で、異教徒を滅ぼし異端を殺戮したのであって、決して神の御心に背いたのではないことがわかります。
何よりもこの宗教が問題なのは、先述したとおり、この聖書の世界観を信じ毒された真面目で敬虔なキリスト者ほど、この毒々しい殺戮を何の疑問も感じぬまま、素直に信じ、受け入れて、同宗門内の人々だけに通用する「愛」を唱えながら、他宗教の信徒へは、残酷に振る舞える精神性が育まれてしまうというということなのです。
その精神性が発露した事例として神奈川大学の湯田豊教授著『宗教』に、「イノケンティス三世は異教徒に対する第四回の十字軍の遠征を要求した。ベジールの町を攻めたとき、全住民を虐殺した。プラムの城を落としたときは、十字軍は防衛者の100人以上の眼をえぐり抜き、鼻を切り取った。またある時は異教徒を火あぶりにした。ローマ教皇に対する報告のなかで『われわれの十字軍遠征の兵士たちは無数の異教徒を異常な喜びをもって焼いた』とあり、ベジールの大虐殺のあとでイノケンティス三世はシモン・ド・モントフォールに手紙を書き、神の働きによって敵を滅ぼしたことを神に感謝し『異教徒の非道の残余を絶滅する』のに援助を与えることを約束した。・・・宗教裁判においては、むち打ち、禁固、罰金刑が迫害された人に課せられた。宗教改革者た ちも異端者の迫害を続け死刑を異端者に課せた」とありますが、これは単に一神教の非寛容性に止まらず、聖書の世界観に触れると残酷な神と同様に、おぞましいばかりの残忍な精神性を共有してしまうという証左ではないでしょうか。
これらの歴史は明らかに、聖書に書かれてある内容が人間に影響し、行動させていると思われます。日本では、博愛や神の愛という言葉だけがアピールされていますが、決してそのような神でも、宗教でもなく、むしろカルトそのものであるということが、聖書を紐解くとわかってきます。
(2)「エホバの神」は偏愛・残酷な神
キリスト教の神は、本当は全人類など愛してはいない。博愛というのは、ひとえにキリスト教を信じる者に対してのみ有効な言葉のようです。
ヨハネによる福音書にある「互いに愛しあいなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。」を持って愛の宗教だの博愛などとこの宗教を定義付けようとするが、イエスの教える相互愛はクリスチャン同志の愛なのです。イエスをキリストとして信仰しない人間は、「互いに愛しあいなさい」という戒めから除外されるのです。イエス自身も、彼を信じない人々の運命についての配慮はなく、むしろ、イエスは平然として呪い、彼らを平然と地獄へ落とすのです。その事について、同じヨハネ福音書に「彼を信じるものは、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」と断言し、「御子(イエス)に従わないものは、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである(ヨハネ福音書)」と明言されているのです。
イエスは、不信仰の人を愛してはいないのです。「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(ヨハネ福音書)
と、イエスにつながっていない人々は神の愛と恵みから永遠に排除されるのであるから、キリスト教が博愛の宗教だという者がいたら、きっぱりと否定すべきでしょう。
(3)二千年にわたるキリスト教の歴史は異教徒と有色人種虐殺と収奪の歴史であった
今ある、いわゆるイスラム国の過激なテロも傲慢で横暴なキリスト教社会のもたらした帰結であると指摘する者がいますが、奴隷制度や植民地の理論的根拠は聖書に明記 されていると、これまでもキリスト教の牧師達は堂々と公言していたようです。
牧師である、ロバート・ジャミソン、A・R・フォゼット、デービット・ブラウンは、その聖書注釈書の中で次のように断言しているようです。「カナン詛われよ。(創世記9:2 5)この宣告はハムの子孫であるアフリカ人が奴隷にされたことにより、成就を見た。」と。つまり、聖書の世界こそが真実で、その様な結果になるのは当然だと言っているのです。
これは、ノアの方舟の一節で預言者ノアが600歳のある時、酔って素裸で寝込み醜態をさらしたところをハムに目撃されましたが、ノアは自分を責めるのではなく、ハムを責め、ハムの息子カナンに対し「詛われよ、カナン、兄弟達の下僕となれ。」と詛ったという聖書の一節に由来するといいます。
ノアの息子三兄弟が各人種の先祖でヤペテは白人、セムはアラブ・ユダヤ人、ハムは黒人・有色人種の先祖とされており、この言葉を根拠にして19世紀イギリス探検家ジョン・H・スピークが「ハム仮説」を打ち出し、黒人奴隷及び有色人種の植民地政策の理論的根拠としたとも言われています。
またこのノアの方舟の「最後の審判」もまた、「神の手を煩わせるまでもない、我々の手で…」という発想につながる異教徒・異端虐殺の理論的根拠となっていると指摘しておきたいと思います。
戦後日本はアジアを侵略した悪辣な国として、東京裁判に於いて断罪されていますが、その裁判の判事であったインドのパール判事(注~パール判事は1235ページの独自 判決文を作成。日本の誤りについても指摘したが独り日本の無罪を主張)は「私の判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということが解るはずだ。それなのに、あなた方は自分の子弟に『日本は罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史をどうか私の判決文を通じて充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感 を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然と見過ごすわけにはいかない。」と。
パール判事の言う「欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人」の一例として1885年(明 治18年)に西欧諸国で締結されたベルリン条約があります。これは白人国家が第三世 界を植民地化する場合、その所有は早い者勝ちで海岸線を取ると奥地も優先領有権を持つという取り決めで、たとえば、ソマリアを取ればエチオピアも植民地として認め、他の西欧諸国は手出しをしないという条約なのです。
何故この様な理不尽な条約を罪悪感もなしに批准できるのか?
1859年(黒船来航から六年後)米国の司法長官を務めたキャレブ・カッシングがマサチューセッツ州議会でこの様な演説をしています。「我々は優れた白人種に属し、つまり男性に会っては知性の、女性にあっては美しさの完璧な具現化、それこそ力と特権であり、どこに行こうとどこにいようと、キリスト教化し、文明化し、従属を命じ、君臨する権力と特権を持っている。私は自分の血と人種である白人とは、仮に英国のサクソン人であろうとアイルランド系のケルト人であろうと同格であると認める。しかし米国のインデアンやアジアの黄色人種やアフリカの黒人が私と同格であるとは認めない。」会場ではこの演説が終わると割れるような拍手が沸き起こったと云います。白人警官の黒人暴行死に見られるように今なお、黒人及び有色人種への差別や暴力がなくならないのは、このような白人キリスト教徒の抜きがたい有色人種への蔑視と差別は聖書によって赦されているという宗教的論理が深層心理に染みついていることが原因の一つであることは否定できないのではないでしょうか。
これがキリスト教及び聖書の流す害悪なのです。その他にも、十字軍の遠征・30年戦争(カトリックとプロテスタントの戦い)異端裁判・魔女狩り・ユダヤ大虐殺・南北アメリカ大陸におけるインデアン・インデオの大虐殺・大東亜戦争下においては広島・長崎への原爆・東京大空襲等により80万人の一般市民を虐殺《これは明らかな戦時国際法違反である》~(国家神道の日本社会はキリスト教国からすれば、異教徒であるばかりか、カルト社会と認定されていたからか?)等枚挙に暇がないほどの聖書の世界の歴史が物 語っているものは、宗教的独善と反キリスト者の死(亡び)なのであり、その犠牲になっ た者は、数千・数万の単位ではなく、少なく見積もっても億の数を下らないでしょう。オウム真理教も裸足で逃げ出すほどのカルト宗教だと断言できる歴史的事実があるのですが、このカルトが世界を制覇したため、クリスマスが世界標準になってしまっているに過ぎないことをそろそろ日本人は気づくべきなのです。
オウム真理教の各種事件がこの先、時を経て風化し、その事を知らない世代の誰かがオウム真理教の宗教的祭事を楽しそうだからと言って、どこかの放送局で、もし、放送しようとしたら、そのおぞましさを知っている者は、強く反対し、それでも実行されれば、大きな批判を浴び、いわゆる炎上は必至でありましょう。しかし、その批判・炎上のほうがむしろが見識があるものと言えるでしょう。
キリスト教のおぞましい歴史的事実は、枚挙に暇が無いほどでオウム真理教の比ではないのはおわかり頂けたと思いますが、それらを我々は、知っているだけに番組内で、幼気な幼児がこの宗教の祭事クリスマス等にうれしそうに参加するのを見るのは、誠に痛々しく、嫌悪感さえ覚えてしまうのです。教育の場でもある幼児番組を制作するに際しては、むしろ、この様な宗教の本質を見極め、何より憲法第20条の信教の自由と放送法に配慮して制作するべきであり、今までのようなクリスマス関連番組は今すぐにでも放送 中止し、さらには、今後の放送予定から当該クリスマス関連番組の廃止等を真剣にご検討頂ければと願うところです。
(4)慈善事業等の社会貢献をもってしても許容できない理由
しかし、何はともあれキリスト教はノーベル賞を受賞したマザー・テレサのように慈善事業に力を入れ、少なくともそのボランテイア活動は社会貢献をしているのであるから、その宗教的祭祀であれば、所謂大目に見ていいのではないかとの声も聞こえてきそうで す。しかし、これについても先に述べたように、この二千年間愛を説きながら、平気で異 教徒と有色人種を搾取し、殺戮し続けたカルト宗教という事実は拭い去ることは出来ず、罪滅ぼしとしての慈善事業に魂を奪われ忘れてしまうほど、その罪は軽くは無いと思われます。
しかも、たとえば件のマザーテレサにしても世情で評価されている内容とは大きく異なる実像が指摘されています。
カナダの宗教学専門誌「Religieuses」で大学の研究者が発表した論文によると、「マザーテレサ」の美談や名声はカトリック教会の誇大宣伝のためにでっち上げられたもので、聖人とは程遠い人物であったとされています。
モントリオール大とオタワ大の研究者たちは、彼女に関する300件以上の文献・資料を精査し、「マザーテレサが世界に開設した517のホスピスは衛生状態が悪く、医薬品が 慢性的に足りず、満足な治療は施せなかったと報告されている。しかし、彼女の修道会 は何百万ドルの多額の寄付金を受け取っており、金銭的に困っているわけではなかった。」という事実を突き止めているのです。
そして、モントリオール大とオタワ大の研究者たちは、「マザーテレサは、患者の痛みを和らげる事はせず、痛みに耐えることを賛美して癒すという、怪しげなことをしていた。多くの患者は、彼女のもとを訪れれば、医師が治療をしてくれるものと思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけだった。聖職者による性犯罪や怪しげな資金洗浄や運用等により「人気が低迷しつつあったバチカンは、劣悪な環境で苦しむ人々に優しく接していると、マザーテレサを『生きる聖女』だと大げさに宣伝することで、カトリックのイメージアッ プを図ろうとした。」と指摘しています。
「マザーテレサ」は食わせ物で胡散臭い人物との意見は、実は昔からあったようです。具体的には、ジャーナリストの故クリストファー・ヒッチンスなどは彼女を告発する本を出版しています。その書籍のなかで、彼は、「彼女が世界中から集めた寄付金を使えば、ベンガルに一級の病院を建てることだって容易だったが、彼女はそうせず、劣悪な施設に患者を収容し、ろくに治療も施さなかった。痛みを和らげるなど嘘だ。死ぬこと、痛みに耐えることを賛美する。まさしくカルトのような施設だったのだ。」「信仰する宗教に関係なく看病したと言うのも嘘」で「痛みに耐えれば天国に行けると繰り返し言い洗脳し」改宗を迫ったと厳しく批判しています。
また、バチカンは、「マザーテレサは、ひどい腹痛に苦しむインド女性モニカ・マガリッジの腹部に宗教的メダルを置き、ただ祈ったら治癒した。」と奇跡として世界に喧伝しています。しかしながら、その女性患者の苦しみを見かねた医師は、「卵巣嚢腫と結核であったので投与した薬により治癒したのだ。」とこれを否定しているのです。それでもいまだにバチカンが「奇跡だ」と主張し続けるのは、マザーテレサが薬やお金を使って治療するはずはないとその運営実態を正しく認識し、今なお奇跡だと信じているのか、薬功があったと言うより奇跡の方が都合がよいためなのか、結果として今なお多くの人々を騙し 続けています。
ちなみに、「マザーテレサは晩年心臓病を患いペースメーカーを入れる手術をアメリカの衛生的で設備の整った近代的な病院で、痛みを和らげる麻酔薬を投与されながら治療を受けており、(彼女の死後には、「彼女の個人口座には48億円以上の大金が残っていた。」《出典アウロラ~旧旅の軌跡》との情報もあるなど)、聖人とは程遠い人物であった。」ようです。
また、マザーテレサが、ハイチやアルバニアの独裁者を支持し、多額の寄付金を得たという説(不正義の疑い)や、アメリカ史上最悪の金融詐欺事件の主犯者チャールズ・キーリングからも17000人から騙し取った資金の一部125万ドル(日本円1億3000万円相当)を受け取っているのです。更に専用ジェット機を使う便宜も供与されていたのですが、この被疑者が捕まり裁判の際は、その裁判官(ランス・伊藤)に情状酌量の嘆願書を送りつけています。さすがに裁判官が返事するわけにもいかず、担当のロス地検トウリー検 事補が、マザーテレサに返事を送っています。その内容は、聖書の一節を引用して、不当利得の返還を強く求めているのです。マザーテレサがこの犯罪者から得た寄付金は、なけなしの金を騙し取られた貧しい人々のお金の一部であり、少しでもその人達に返還するのが、当然であることを訴えたものでした。泥棒が自分の罪の意識を和らげるためにイエスを利用しようとしてその金の一部を寄付したとしたら、イエスならば如何したか、胸に手を当てて考えて欲しいと言及し、「まさにあなたはキーリングが詐欺によって盗み、それが有罪とされたお金を寄付されたのです。そんなお金をあなたが持ち続けるべきではない。一生懸命働いてそのお金を得た人々にすぐに返しなさい。」と厳しく彼女を糾弾しています。
しかし彼女はその後この手紙を一切無視し、返事もしなければ、一セントの返金もなかったのです。宗教人というより人として、いかがなものかと思わざるを得ない守銭奴のような聖女ぶりではありませんか。
この検事補の手紙には、この項のテーマである「慈善事業等の社会貢献をもってしても許容できない理由」の答えも記されています。トウリー検事補は、キーリングの様な者は、所謂慈善事業や寄付によって、寛容や、愛や赦しを買うことが出来ると信じているか らマザーテレサに寄付をしたのだろうと分析し、しかし、教会から免罪符を買い「赦し」を乞うのが正当な方法であった時代は、あの宗教改革の時代で終わったのだと述べ、「も はやいかなる教会も慈善事業も犯罪人の意識を清めるために使うことは許されません。」と断言しているのです。(奥山篤信著「キリスト教を世に問う」から)
つまり多くの人々の命を奪い続けたカルト犯罪の巣窟であったキリスト教という宗教は、 慈善事業等をいくら行おうとも免罪されることはなく、従ってその祭事は、やはり大手を振 って放送される類のものではないと認識すべきでありましょう。
「Religieuses」に掲載された論文は、「マザーテレサの創られた神話は(中略)人道活 動家を励ますことになっているのは確かだ。」「しかし、マザーテレサに関するメディア報 道は、もっと慎重に、事実に基づいたことを伝えるべきだ」という言葉で締めくくられてい ます。
この言葉を放送業界人は特に真摯に受け止めるべきであろうと思います。
百歩譲って人道活動家を励ます立派な行いがあったとしても、その寄付金のほとんどは 隠匿され、使われたのは布教のための教会や修道院等の建設が主であったようで、慈善事業そのものが結果としてカトリックの収益事業とも言え、寄付金のほとんどが布教が主目的であったのは間違いのないところでしょう。故に、この宗教団体の抱える反社会的な問題点に対する正しい認識が必要です。一般でも、たとえば何かの善行で表彰対象者となろうとも、その所属する組織に問題があるとしたら、不適格な組織を理由に表彰対象か ら外されるのと同様に、その宗教的祭事クリスマスなどは放送素材として憚られるべきなのです。
マザーテレサの所属母体カトリック・バチカンは過去の歴史上の問題だけでなく近年の不祥事を挙げるだけでも、放送素材として相応しくないものばかりです。
年端もいかぬ少年少女を性的虐待したカトリックの聖職者たちのスキャンダルは全世界で暴き出されています。たとえば、米国でも、米ニューヨーク・タイムズ紙(2003年1月11日 電子版)は「過去60年間で米国カトリック教会の1200人を超える聖職者が4000人以上の子供に性的虐待を加えた。」と報じています。さらに、2004年2月16日CNNテレビで は「1950年から2002年の52年間で、神父4450人が11000件以上の性犯罪を犯した。」 とも報じています。これらの事実を長年司祭らは隠蔽し続け、大きな批判を浴びることと なりました。その結果、ベネディクト16世は責任追及に耐えきれず、本来終身であるはずの法王の座を退位せざるを得なかったようです。多くの聖職者が牢獄に収監されたに もかかわらず、この病巣はいまだに根深く、組織的な問題として世界から糾弾されているのは周知のことで、放送業界に身を置く方達が知らないはずはないでしょう。
またバチカン銀行が犯罪マネーロンダリングに関わったとして、米国務省は「国際麻薬 統制戦略報告書」において、マネーロンダリング懸念先にバチカンを入れています。
これらの事によって、人気が低迷しつつあったバチカンが、マザーテレサを『生きる聖女』だと大げさに宣伝して、カトリックのイメージアップを図ろうとしたと、モントリオール大と オタワ大の研究者たちは、分析しているのです。
では、プロテスタントは大丈夫かというと、その創始者とも言うべきルターの晩年の著 作「ユダヤ人と彼らの嘘について」「口にすることの出来ない御名について」(著書の内 容~ユダヤ宗教指導者全員の殺害と全ユダヤ人の奴隷化等を主張が主なテーマ)が、後のナチスのホロコーストにお墨付きを与え、扇動し、影響力のある提案を行ったとして、 身内である現代のドイツ・ルーテル派は悔悟の念を表明しているほどであり、やはり同じ聖書の世界を信じると、皆同じ発想になり、結果として同じ様に反キリスト者や、異教徒 の殺戮へと舵を切るのだという事実を付言しておきたいと思います。
このような事実からも、カトリックに限らずプロテスタントも含め、キリスト教の聖書の 世界観が関連する宗教のお祭りである、クリスマスなどを手放しで受け入れ、楽しむがごとき放送は当然忌避すべきことと思われます。また、ローマ法王等に関する放送についても、いかにも提灯持ちのような報道に終始するのではなしに、少しは上記事実などを踏まえた、客観的報道をしていただきたいと、切に願うものであります。
5 クリスマスは習俗だとして見て見ぬふりができるかについて
街にはこの季節クリスマスソングが流れ、各所にクリスマスツリーも散見されるところです。これはまさしく商業主義に毒された風俗・習俗の様にもなっていますが、これさえも、宗教的抵抗感を薄めるためのキリスト教布教戦略の一つなのではないかと思えるのです。
日本は、戦国時代と明治維新、それと第二次世界大戦終戦後にキリスト教布教の波が押し寄せました。しかし、その信徒数は、現在も人口比数%と決して多くはなく、いずれも布教には失敗をしたと言えるかもしれません。しかし、今着々と習俗化したクリスマスなどによって、布教の下地は作られつつあるとも言えます。
そもそも、日本ではキリスト教布教は困難と言われていました。キリスト教徒の中には、負け惜しみなのか、現世利益に結びつかないキリスト教は日本人のメンタリティに合わないからと指摘する向きもありますが、それより何より仏教的素養がある日本人には、キリスト教の天地創造・原罪論・処女懐胎・死後復活等をまずは信じなければ始まらない荒唐無稽な世界観や神観に飽き足らないのが主な原因と思われます。
そのような日本人が戦国時代にも示したとされる疑問として
- (ア)イエズス会 ルイス・デ・アルメイダはキリシタン大名と組み、それらの城下では、一神教故の非寛容な布教の本質を露わにして、まるで現代のアルカイダが貴重な宗教的文化遺産までも破壊したように領地内の神社仏閣を全て破壊し、僧侶・神官・篤信の仏教徒等を殺戮した。
- (イ) 宣教師により持ち込まれた商談~硝石(火薬)一樽と少女50人の交換 (日本側は年季奉公と理解)は天正少年使節団の「欧州各地で見目良き日本の娘達が秘所丸出しで鉄枷に繋がれて売られていた」という帰国報告により、奴隷売買であると判明し、秀吉は烈火のごとく怒り、宣教師ガスパール・コエリヨに直ちに連れ戻せと命ずるも、彼はそれを無視し、キリシタン大名に秀吉潰しを唆したとされる。
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※結果として約五十万人の日本人が海外に売り飛ばされたようで、1607年、南米ペルーのリマで行われた人口調査に依れば、当時の人口2万5454人の内、日本人の奴隷として、男9名と女11名がいたことが報告されているようです。
また、秀吉の言動を伝える「九州御動座記」によれば「伴天連どもは、諸宗を自分たちのキリスト教に引き入れ、それのみならず、男女数百の日本人を黒船に買い取り、手足に鉄の鎖をつけて船底に追い入れ地獄の苦しみ以上に、生きながら皮を剥ぎあたかも畜生道のありさまである。」とある。
(奥山篤信著「キリスト教というカルト、信者になれないこれだけの理由」から) - (ウ)数年後、手品や妖術を使いキリストの奇跡と吹聴する宣教師たちに秀吉は業を煮やし、伴天連追放令を発令した。であったようで、必ずしも、為政者より重きを為す「主(神)」が目障りだったからではなく、キリスト教そのものが、あまりにも邪教の本質を露わにしたからなのです。これが家康の鎖国に繋がり、宣教師の一部が処刑されましたが、その主な理由はあまりに目に余る奴隷売買等の悪行が主な原因であって、これを如何にもきれい事で取り繕って、純粋に宗教的な理由の殉教であったかのようにキリスト教徒は言い募っているようですが、果たしてその様な者は一体何人いたのでしょうか。
このようなことをどのような宗教色にも染まらずに、淡々と事実を事実として検証していくことこそが、マスコミ・放送業界の責務と思うのですが。
バチカンには、当時の宣教師が日本地図を持ってアウグストゥス四世に謁見した際、同法王はその地図の近畿地方あたりに線引きをして、そこから東と北をスペイン領、西と南をポルトガル領とせよと明言した公式文書があるそうです。この様な事実を踏まえると、最近の世界遺産登録【長崎の教会群とキリスト教関連遺産】を手放しで喜び、これらのおぞましい事実を明示しないまま、如何にもキリスト教徒が理由もなく宗教弾圧されたのだと主張する被害者面のみがクローズアップされている事に憤りを感じます。むしろ、キリスト教の犯した、とんでもない悪行と恐ろしさがそこにあり、政府関係者を含め、その事実をほとんどの人々は知らないままでいる事こそが問題であると思っています。
ローマ法王が長崎等を訪問しましたが、この様な歴史的事実をNHKを始めマスコミ等の誰も指摘しない日本の現状に暗澹たる気持ちを抱くのです。
明治政府は、不平等条約解消の交換条件として、江戸時代から続けていた伴天連禁止令を仕方なく解除したというのが本音であったくらいで、キリスト教・伴天連は悪辣な所 業をしていたという認識はその当時まで、まだあり、キリスト教に対する抵抗感は根強く、また、仏教的素養の浸透もあり、中々この宗教の布教成果は得られなかったようです。
しかし、第2次世界大戦終戦後は戦勝国アメリカのアプローチが全く違っていました。 戦後の日本人に対して、GHQは徹底した自虐史観の刷り込みを目的としたWGIP(War Guilt Information Program)を行ったのみならず、日本のキリス ト教化にも力を入れました。
キリスト聖公会の熱心な信徒であったマッカーサーは、1945年秋に来日したプロテス タント指導者に対し「今、日本は精神的真空状態にある。」として「日本をキリスト教で満 たすため、私のところに1000人の宣教師を送ってくれ。」と依頼し、1951年までに軍用機 等を使って合計2500人の宣教師が来日しました。国内での移動、宿舎も軍用のもので 便宜が図られ、聖書も1000万冊が軍用船で輸入されました。
また、米軍を苦しめた戦闘機「隼」などを作っていた中島飛行機工場を跡形もなく取り壊し、その跡地に「国際基督教大学」を開校するなど、占領中に20万人の信徒数を激 増させる「500年に一度といっていい宣教拡大の機会」(マッカーサー)と捕らえ、徹底 したキリスト教化が推進されたようです。(袖井林二郎著『マッカーサーの二千日』)
しかし、その成果については1950年4月16日付け「ロンドンタイムズ」紙は「マッカーサーの影響力にもかかわらず、日本をキリスト教化しようとした努力は失敗した。」と報じています。
NHK・朝日新聞社をはじめとするマスコミ各社が、クリスマスには実に寛容で、キリスト教は世界宗教として申し分のないものとして扱うのも、平和憲法を殊更に大事にするのも、未だに、キリスト教国アメリカの意向に配慮し、戦後間もない当時と同様に思想宗教 宣伝機関として活動し、日本人をいつの間にかアメリカのコントロール下に置くことが目 的なのかと疑ってしまうのは、うがった見方過ぎるのでしょうか。
この事はまんざら、うがっているとも言えず、結果として、勝てば官軍のアメリカの影響力によって、この様なカルト性の強い宗教であるのに、その宗教行事が、無批判に、かつ当たり前のように、既に日本に浸透していると言えるのです。
クリスマスが習俗のように日本社会に浸透している現状は、当然のように、この宗教のカルト性に目を向ける指摘は自然と封殺され、公共の放送で流され、幼稚園、公立学校等で繰り返されるクリスマス並びにクリスマスソングによって、無批判にキリスト教が布教されていく素地が醸成されつつあるのではないかと不安なのであります。それがひいては白人キリスト教社会の論理で好き勝手にされる社会が日本にも現出するのではないかと危惧するところです。
そのような不安と屈辱感を覚えるのが、当たり前のようになされるクリスマスなのであり、故に、クリスマスは習俗だとして見て見ぬふりができないのであります。
その点を真にご理解頂きたいのであります。
6 結びとして ~宗教的ハラスメントに厳正な対応を~
程度の差はあれ、なにがしかの宗教的信条を持つ者は、宗教色の強い番組や偏った宗教理解を垂れ流す放送には強い違和感を抱き抗議の声を上げるものであると理解しています。公共の電波を使うことを認可されている放送業界は、当然、宗教的に無色または中立、不偏不党といった理念に基づき運営されるべきもので、むしろ、そのような規律ある運営の元での放送は好感され、支持されるものだと思います。
もし、貴放送局が信教の自由の尊重という観点やキリスト教のカルトという本質に向き合い、クリスマスなどの行事が、国民の宗教的感性を狂わせ、何の批判力も養わないまま、カルト宗教を受け入れてしまうので一切の宗教的放送は取りやめるとの見識を示されたならば、きっと今以上に確かなる貴放送局支持者が増えると確信します。
宗教とは寛容の精神が大事とよく言われます。故に我々のような考えを不寛容だと決めつけ、耳を傾けようとせず、軽視若しくは無視するなどして、自分と感性や意見の違う者として排斥する傾向があります。しかし、これこそが非寛容であります。それにも耐えて更に、少しでも解って頂こうと、この様な意見を開陳すると、我々に対し「排除する差別」をしていると批判します。そして、寛容の精神で何でも受け入れるのが宗教ではないかと、「同化」を迫るのです。しかし、これらの方々は、差別をするなと言いながら、「同化を迫る差別」を強いていることに気づいておられません。私は、信教の自由こそが大事と思っておりますので、特定の宗教を禁じろなどと言っているのではなく、この信教の自由を確かなものとするために、公共の電波を使用する放送事業は、不偏不党の基本を堅持して頂きたいと要望しているだけなのです。しっかりとその宗教の実態を把握した上で、良識を持って、特定の宗教に肩入れするがごときの放送内容を改めて頂きたいと言っているだけなのです。
昨今各種ハラスメントが問題になっていますが、各種スポーツ団体等での神社への必勝祈願におけるキリスト教徒等による忌避やオーナー社長主催の自社設置祠への参拝強要、新任職員への神棚の水替え等の強要等々、所謂宗教的ハラスメントと言われるものに関し、我々に限らず、心情的に違和感を持つ宗教的行事に対して、「否」と声を上げる 者が増えてきていることは確かなようです。職場で、ヌード写真を芸術作品のように美しいからと云って、机上や壁に掲示することはセクハラであると云うことは常識となっていますが、私たちからすれば、クリスマスツリーもヌード写真も同じく嫌悪感を抱く代物なのです。果たしてこれからもクリスマスツリーは宗教的ハラスメントの観点から許され続けるのでしょうか。
これらのことは、ジングルベルを垂れ流す商業施設も同様に配慮せねばならないと思いますが、まずは、放送業界において、出演者が、「それではよいクリスマスを」とか「メリークリスマス」等と、まるで当然に挨拶のように口にすること自体、実は異様なことと気 づいてほしいのです。
何度も述べますが、オウム真理教の宗教的言辞や挨拶、物品などはどんな場合でも、冗談でも使わないのが常識であり、少なくともマナーでもありましょう。このオウム真理教の何千万倍の人々を「ポア」してきたキリスト教であればなおさらでしょう。
また、放送局の職員の中にも色々な宗教的信念や多様な宗教観をお持ちの方がいるのは間違いの無いところです。果たして、全ての職員が、喜々としてクリスマスツリーの飾り付けをし、クリスマスソングを演奏しているのか、という点も踏まえ、信教の自由若しくは宗教的ハラスメントについて、この際しっかりと局内で、ご検討頂く必要があると思われます。但し、ここで注意を要するのは、基本的に、自身の宗教的信念を秘匿しておきたい、というのも信教の自由の大事な一部ですので、その事を表明せざるを得ない状況 を作り出すこと自体が問題で、多数決の論理ではないのだという認識の上でのご検討が、必要なのではないでしょうか。故に、ジャーナリステックなものを除き、宗教的色彩のある、たとえばクリスマス飾り・クリスマス料理の作り方の特集やクリスマスソング特集、幼児向けクリスマス番組等の各種放送は、即刻中止すべきであると思います。
NHKで以前放送された、お遍路のやり方を伝授する番組や民放での占い・パワースポット巡り等なども、宗教的中立性を無視した非常識なものと言えるでしょう。
公共の電波を使う番組の多くは、本来不偏不党を基本とすべき立場であると同時に、大事な教育の場でもある訳ですので、不都合な歴史的事実に目を背けることなく、オウム真理教以上に人々を殺し、苦しめ、惑わしてきた、この宗教の本質に向き合い、その様な宗教の祭事には、慎重にも慎重を期して頂きたいのであります。
この様な理由から、あらゆる放送局の宗教的祭事の番組について再考をお願いするとともに、宗教的心情としてキリスト教をオウム真理教以上に唾棄すべき宗教と認識している視聴者がいることをご理解の上、これからは、そもそも宗教色のある祭事・教義の解説等については、見識ある配慮をして頂き、一定の宗教を賛美、後押しすることとなるような内容の番組制作及び放送が無くなることを、切にお願いするものであります。





