本門立正宗の原点

目次

日種・日哲上人御法難について

はじめに

 本門立正宗の原点とも言うべき日種・日哲上人御法難について、その御事蹟と時代背景についてお話しさせていただきます。日種上人、日哲上人は共に国家神道強制に異を唱え、天照大神のお札を焼いた所謂「大麻焼却事件」で獄に繋がれて二年の長きにわたりご苦労をされましたが、日種上人はEHネルソンというGHQの取調官に大折伏されたという逸話があり、日哲上人の恩師であります。
 実を申しますと、この大麻焼却事件というのは、その時代背景やそれまでの歴史を考えると死をも覚悟しなければならないほど大変な国家反逆罪と言えるものなのですが、当宗の基本原則であり勿論日蓮聖人の御精神でもある「謗法払い」の精神からやむにやまれぬ宗教的信念に基づく行動であったのです。
 そもそも、法華経安楽行品第十四に「菩薩・摩訶薩は、国王・王子・大臣・官長に親近せざれ。」と、仏道修行を目指す者は、権力に近づきおもねってはならないというお戒めがあるのですが、日種上人・日哲上人の御一生はまさしく権門に屈せず、富貴に阿らずの死身弘法の精神での御弘通御奉行でありました。国家神道のカルト社会が現出し、その思想に大半の者が狂っていた時代に、まさに命がけの覚悟を示されての大麻焼却事件でしたが、それこそが、正法護持のための「謗法払い」そのものだったのです。

謗法払いとは

 この謗法払いとは当宗独自のものではなく、誹謗正法(正法を誹謗する)の行い・言説・事物を謗法といい、仏教において一貫して誡められて来たことなのでそれらの行い・言説・事物を、折伏排除することが「謗法払い」なのであります。我々が入信する際には、家にあるあらゆる正法以外の神棚や十字架や、お守り、お札の類を捨て去り、焼き清めるとともに今までの懈怠、浅識、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗、軽善、憎善、嫉善等の十四あると言われる誹謗のひとつひとつを心から消滅させる「謗法払い」が重要であるとされています。それは、本仏釈尊の尊き御教えを、清き水として頂くのに、何時飲んだか解らぬような残りかすがこびりついているような器・コップでは頂けるはずもなく、綺麗に丁寧に洗い清めたもので頂く、それと同じ行為なのです。その様な精神が「謗法払い」なのですが、日蓮聖人は、一歩進めて国家そのものの謗法をも払うために御出現されたとも言えます。
日蓮聖人は法華一乗の義によって仏教を体系的に理解し、教主釈尊の随自意(=真実)が明らかにされねばならないとし、それを間接的であれ、否定する行為を謗法として指摘してこられました。故に聖人のこのような仏教理解と実践により、謗法に対する厳しい認識を基本に、教法の勝劣や諸宗破折の理由、罪の認識のありかた、仏教実践のありかた等のさまざまな角度からの多くの御指南が残されております。これは日蓮教学究明の根本課題として位置づけられる程でありますが、特に『守護国家論』『立正安国論』では、謗法者の糾明を行い、「謗法の人を禁ぜよ」「須らく国中の謗法を断ずべし」と主張され、国土の危機を憂い、その危機の根本原因は教主釈尊の末法救済の誓願が遮断されているためであるとし、その悪法を糾明することが不可欠であるとされたのです。そして『秋元御書』(筒御器鈔ともよぶ)には、「我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ。(略)謗国の失を脱れんと思はば、国主を諫暁し奉りて、死罪歟流罪歟に行なはるべき也」(定一七三七~八頁)とその覚悟を示されておられるのです。その精神を昭和の時代に実践されようとされたのが、日種上人・日哲上人であったのです。ではその時代とは如何なる様相を呈していたのか。それを以下、概観してみたいと思います。

国家神道下の他宗派の動向

この戦争中の行動・言動はその仏教教団が、本物の宗教教団・仏弟子集団であったのかを見分ける最適のメルクマールとなるので、各宗派のその時代の有り様を示し、その対比の中で日種上人・日哲上人御法難時の死身弘法の有り難さ(困難さという意味も含めて)を再認識して頂きたいと思います。
 昭和一六年四月、軍部及び内務省が、日蓮系諸教団に対し、御曼荼羅の御題目の下に天照大神が書かかれていることが不敬であるので、これを上下逆に書き換えよと難癖をつけ、更には日蓮聖人遺文の字句の中に、天皇を「わずかの小島の主」とか「崇峻天皇は腹悪しき王なり。」等の御書が不敬に該当するとし、出版に際して削除せよと内務省が弾圧する。
 「教法の尊重を説述するが為に往々国家権力をも軽んじて法主国従(国家よりも仏法を貴しとする思想)的言説を流布し、或は仏主神従の信念より我国固有の神祇観を無視して皇祖神を初め奉り、八百万の神を誹謗し奉りて其の尊厳を冒涜し奉るが如き教説を流布する」(『内務省警保局資料』昭和一四年・一一六四頁)、というのが内務省の見解でした。
 この問題の禍因は「日蓮と仏主神従の神祇観」にあると認定することにより、曼荼羅の尊厳と日蓮聖人の信仰教義を否定し、これを奉ずる日蓮門下各教団を国体と国家神道体制下に統制していく政府方針の徹底化から曼荼羅国神不敬問題が引起されたのでした。
 これらの締め付けに日蓮系諸教団のほとんどが屈し、身延系日蓮宗は『非常時の思想善導に尽力すべし』と通達し、長いものに巻かれただけでなく時の高佐管長及び幹部増田宣輪は「われわれは、天皇を御本尊とし、天皇に全身全霊を捧げるべきであり、この根本信仰こそ、真の安心立命である。」とまで宣明したのです。天照大神之神札を宗門自ら受容し、信徒にも強要したのは勿論のことでした。
 又日蓮正宗にあっては、時の鈴木日恭法主(後に焼死)は、軍部に寧ろすり寄り、皇国主義におもねった勤行文に改変し、日蓮聖人御遺文も国から削除を求められた部分をあっさりと削除しています。さらには天照大神之神札を宗門自ら受容し、信徒にも強要した事が知られ、信徒側の創価教育学会(後の創価学会)の発出した文章にもその証拠が残っています。
 また、その創価学会(当時は創価教育学会)は、牧口常三郎会長、戸田城聖理事長(後の二代目会長)が官憲に捕まり牧口が獄死した事実があるため、いかにも軍部に抵抗しての法難であり殉教であったと戦後盛んに吹聴していましたが、その実は、会員が近所の人間が死亡したのを「お罰だ」と折伏したのに腹を立てた隣人が警察に訴えたのがきっかけとなり、官憲がその会員を逮捕し、更に両名に及んだようなのです。当局の弾圧が身辺に及ぶに至る牧口は「今上天皇こそ現人神であらせられる。・・・我々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、本当に敬神崇祖する事が出来ると確信するのである。」等の文章を創価教育学会発行の「大善生活実証録」に寄稿して、国体と国家神道体制に恭順の意を表していたのですが・・・。

又戸田城聖は理事長戸田の名で
「一 毎朝天拝(初座)に於いてご本山(日蓮正宗)のご指示通り、皇祖天照大神、皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌。武運長久を祈願すべき事を強調指導すべき事。一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。以下略」の内容の「通牒」を発出しています。これが日蓮正宗の謗法の動かぬ証拠ともなっていますが、これも効果なく獄に繋がれた結果、牧口は獄死するのです。因みに池田大作は「文藝春秋」(昭和四三年二月号)の松本清張との対談の中で戸田城聖が反戦を貫いたことに感銘して入信したとその入信動機を語っていますが、この通牒を読めばこの話は嘘で成り立っていることは言うまでもありません。
 日蓮系諸教団以外の所謂爾前権教・謗法の各宗派も挙って、国家神道におもねって、仏教の体裁さえかなぐり捨てたが如くのすり寄りぶりを見せます。
 まず、天台宗は昭和十八年四月天皇家におべっかを振りまき東伏見宮邦英を天台座主に就任させ、『仏教教学宗学の徹底的皇道化、教団寺院の神祇奉斎を実現すべきときである。』とはしゃいでいます。(中外日報)
 各宗派とも『宗教団体戦時報国会』なるものに参加し、坊主自らが軍需工場や炭鉱に赴き、武器弾薬を製造していました。その数一万人に及ぶといいます。
  真言宗の太平洋戦争中の動向はと言うと、仏教界における戦争協力団体である「宗教報国会」「勤労報国隊」「宗教団体戦時報国常会」等に積極的に参加したことは言うまでもありませんが、真言の坊主の中には、中国でスパイ活動がばれ銃殺されるものもおり、また、昭和一七年一一月真言宗管長(戦争協力のため真言各派は一箇に合同していた)は全ての末寺に対し「非常時の思想善導」に尽力すべしと宣示し、高野山大学教授金山穆韶は、その論文「真言」で「仏教は、無我の理を説き、己を捨てて大君(天皇)に一切を捧げ尽す要諦を明かすものであります」等と表明するなど、無残なものでありました。
 また勿論熱心に戦勝祈願の加持祈祷が各寺で執り行われたようですが、真言が肩入れする側は戦に負けるのが常で、まさに真言亡国との祖師のご指摘のとおり無残な敗戦という結果が招来したのです。
 浄土教も昭和一七年に戦争協力団体等に積極的に参加したことは言うまでもなく、その管長もまた全ての末寺に対し「非常時の思想善導」に尽力すべしと通達します。 東西本願寺派の高僧達も例外ではなく、『大麻』を『拝受して丁重に崇敬を致すが・・至当』『我等の使命は皇道仏教樹立』と主張しています。(中外日報)
 又大正大学学長であった椎尾弁匡はその著「国体と仏教」で日米開戦前夜に際し、ユダヤ人が平和攻勢をかけるのを非として「このユダヤ人の撃滅の先頭に立つのがヒトラーであり、ヒトラーのドイツは頼もしいが、日本は非常に覚束ない。平和が最も恐ろしい。激戦尚可なり。持久戦、最も望ましい。天皇が中心におなり遊ばして、滅私奉公の大道となり、この大事なものを、はっきりと認めなければ、如何に法華経を講じ、久遠寿量を説いても、又如何に浄土の無量寿経を説いても、それは経文の請け売りであります。自分が大御稜威(天皇の権威のこと)に従っていく。それが本当に弥陀を信じるということ・・・・中略・・天皇の絶対性と本尊の絶対性とは、一如一体であるというのが、仏教の本当の本質であります。・・・」とユダヤ人虐殺を是認し、仏と天皇を同一視までした誠に開いた口が塞がらぬほどの論説を開陳しているのであります。更にこの男、終戦と同時に豹変し、兵器を棄てて平和になった今を昭和維新の到来と、はしゃぎ、「茲に来れる昭和維新を、快活に明朗に翼賛すべきである」と臆面もなく表明し、浄土宗大本山増上寺法主に就任したのです。
 又中村弁康という学僧はその著「日本浄土教の国体思想」において、「浄土教を(天皇)翼賛の宗教として往生浄土の思想を全く新しい観点から検討すべきであり、浄土の存在感は否定されるべきである。」とも主張していました。しかし、敗戦の年九月には全国に於いて、敗戦の責任は国民にありとして、「国民総懺悔運動の別時念仏会」を実施して、自らの戦時中のこれらの言辞・言説には頬被りを決め込んで、今日に至っています。
 この様な国家神道への傾斜は禅宗各派においても同様に、時勢に媚びへつらう如き動きを示し続けました。臨済宗「禅匠」関精拙はNHKのラジオ放送に於いて、「天皇陛下に忠義を尽くすことが、そのまま大乗仏教を修行することです。」とへつらい、「仏性が飛躍するものが日本精神」とまでおもねって、仏法を放棄したかのようなアジテーションに及んでいます。さらに臨済宗仏通寺派管長山崎益洲は「禅学研究」昭和一四年一一月号で「天皇は絶対にましまして、森羅万象は天皇のお姿にならざるはなく、天皇の顕現ならざるはない。吾が禅宗は天皇道の顕現に外ならず。(天皇への)滅私奉公とは即ち仏法を習うにある。」とまで、太鼓持ちのようにおもねったのです。曹洞宗も同じく天皇に忠義を尽くすため座禅をせよといった教説を流し続け、戦争賛美の国家神道の尻馬に乗り続けたのです。誠に唾棄すべき有り様で、宗教者の良心や矜恃もかなぐり捨てた各宗派の恥ずべき姿が浮き彫りとなっています。そして終戦を迎えると、各教団とも、手のひらを返したように変節し、その様な教説を唱えていた者が管長や法主に上り詰め、何食わぬ顔で、自宗の教え第一と説いているのです。誠に恥を知れと思うのですが、何よりその様な宗教指導者のもと教えを乞う信者信徒もこの歴史的事実を知り、「これらの宗派に真の宗教的存在価値はあるのかをしっかりと見極め、目覚めよ。」と訴えたいのであります。

国家神道の成り立ちとカルト国家

かたや、この国家神道全体主義の元凶となった神道は何故かくも、モンスター化してしまったのでしょうか。
 実は、明治維新の新政府は、明治元年のときから国家神道の観点から日蓮聖人がお書きになった御曼荼羅と御遺文が国神不敬に当たると言わば因縁をつけ国家弾圧が始まっていました。 これが先に述べた曼荼羅国神不敬問題であり、御曼荼羅の下部に天照大神と正八幡大菩薩が書かれてあること自体が不敬だから直ちに消せ改めよと言うような理由で、明治初年から問題にして弾圧は行われていました。ご遺文についても昭和七年(一九三二)一〇月一日、内務省警保局が日蓮聖人遺文の字句の中に不敬に該当するものがあるとし削除せよとの指令があったことは先述の通りです。
 初代隊長が坂本龍馬で有名な海援隊の二代目の隊長の永岡謙吉が書いた「閑愁録」と言う海援隊の機関誌に、これからの日本の精神的基盤を何にするべきかについて、仏教を基として日本国を運営すべきだと「仏法は国家を保護する大威力を具足せる大活法」という文章が入っていたそうですが、この書物は明治政府によって発禁・禁書になります。この書を日扇上人は非常にいい書だとお認めになっていたようですが、これが坂本龍馬暗殺の原因の一つではないかとして、国家神道による狂信的な廃仏毀釈との関係を疑う歴史家の研究もあるようです。
 この廃仏毀釈について今はすっかり忘れ去られて、歴史教科書でも簡単にしか触れられていませんが、そのせいか、廃仏毀釈を過小評価する向きもあります。しかし、これにより、多くの歴史的遺産(仏像や建物・宝物等)が灰燼に帰してしまいましたし、多くの仏教典が町方で包装紙として使われ、ゴミ同然の扱いを受け、興福寺の五重塔は薪として二十五円で売り出されたようです。僧侶に対する弾圧も激しく、そのほとんどが神官への転職と還俗を強要されたと記録にあります。これは、維新の中心的勢力であった薩長土肥の下級武士の者達が浅薄にも単純に平田派国学にかぶれ、神道国教・祭政一致を唱え、国学亜流の「水戸学」とが重なり、気狂い状態のまま討幕がなり、維新の元勲となって、大和朝廷時代へ復古せよ、と昂じた結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、教典を焼け、僧侶を成敗せよ、となっていったようです。神職者はここぞとばかりに復権を画策しました。江戸時代に、キリシタン禁制を徹底するため檀家制度を設けて、出生と死亡を檀家寺に届けさせ、死者の納棺、埋葬には必ず僧侶を立ち会わせなくてはならないようにしていました。庶民は宗門人別帳に名が記載され、勝手に宗旨を変え、寺を離れる事は許されなくなり、これは神官も同様であったようで、この事で実質的に信教の自由はなくなったと言え、宗教間の真摯な論争はなくなり、その清新性はなくなりました。また相対的に神官神職の地位は軽んぜられていました。明治維新はまさに神道復権の好機でした。よって、一層この廃仏毀釈に拍車がかかりました。この廃仏毀釈によって国家神道は確立されたと言ってもよく、その後の宗教政策は帝国憲法で信教の自由を一様認めるものの、神道は特別な存在として絶対的な立場に置かれ、それが確固な国家神道の潮流として第二次世界大戦終結まで続いたのです。
 この廃仏毀釈のもの狂いで始まる国家神道の思想的系譜はしっかりと庶民の生活にも影響を及ぼしました。各家庭へは強制的に祭祀用神札の配布がなされ、第二次世界大戦当時は汽車が小さな祠や神社の前を通る時でも憲兵等が乗り合わせていたら、神社遙拝の号令のもと全員起立をさせられ遥拝をしないといけないといった所謂カルト社会が本当にこの国で現出していたのです。
 明治維新の西洋化の中で、欧米の科学技術の発達に肝をつぶしたついでに、一神教までありがたがり、天皇を現人神に祭り上げたとの研究もあるようですが、現人神と国家神道は、宗教史に残るインチキ国営カルト宗教で、本来なら神道関係者は、自ら大いに宗教的悔悟を表明して、多数の神職が離職退転しても不思議でないところです。しかし、多くの神職は戦時中国家神道の尻馬に乗ってふんぞり返っていたにもかかわらず、「神道に教義なし」をいいことに口をつぐんだままであり、宗教者の誠実さを感じることが出来ません。

悪辣なキリスト教国による「他国侵逼の難」

 この様な国内の宗教的状況は、ちょうど日蓮聖人の時代と同じく結果的に「久遠実成の教主釈尊」をないがしろにした状況であり、「立正安国論」のご指摘と符合するが如く数々の天変地異や自界叛逆の難(二・二六事件・五・一五事件等)そして、「他国侵逼の難」が起こりました。
 しかし、この「他国侵逼の難」にスポットを当ててみると、他国の聖人が日本国を懲らしめるなどとは到底言うことの出来ない、特に西欧キリスト教国家の悪辣さが見えてきます。
 戦後日本はアジアを侵略した悪辣な国として、東京裁判に於いて断罪されていますが、その裁判の判事であったインドのパール判事(注~パール判事は一二三五ページの独自判決文を作成。日本の誤りについても指摘したが独り日本の無罪を主張)は一九五二年一一月六日、広島高裁においてのスピーチで、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のような言葉を遺しています。    
 「一九五〇年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。ニュルンベルク(国際軍事裁判)においては、裁判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって四年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と判定し、私一人が無罪と判定した。私はその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」
 このように述べた後、博士は一段と語気を強めて、
「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去十八年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。」 
また別の機会に
「私の判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということが解るはずだ。それなのに、あなた方は自分の子弟に『日本は罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史をどうか私の判決文を通じて充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然と見過ごすわけにはいかない。」と。
 パール判事の言う「欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということが解るはず」の一例として一八八五年(明治一八年)に西欧諸国で締結されたベルリン条約があります。これは白人国家が第三世界を植民地化する場合、その所有は早い者勝ちで海岸線を取ると奥地も優先領有権を持つという取り決めで、例えば、ソマリアを取ればエチオピアも植民地として認め、他の西欧諸国は手出しをしないという条約なのです。

何故この様な理不尽な条約を罪悪感もなしに批准できるのか?
 一八五九年(黒船来航のから六年後)米国の司法長官を務めたキャレブ・カッシングがマサチューセッツ州議会でこの様な演説をしています。「我々は優れた白人種に属し、つまり男性にあっては知性の、女性にあっては美しさの完璧な具現化、それこそ力と特権であり、どこに行こうとどこにいようと、キリスト教化し、文明化し、従属を命じ、君臨する権力と特権を持っている。私は自分の血と人種である白人とは、仮に英国のサクソン人であろうとアイルランド系のケルト人であろうと同格であると認める。しかし米国のインデアンやアジアの黄色人種やアフリカの黒人が私と同格であるとは認めない。」会場ではこの演説が終わると割れるような拍手が沸き起こったと云います。
 この様な思想、人種差別こそ聖書の教えを根拠としたキリスト教の流す害悪なのです。奴隷制度や植民地の理論的根拠(口実)は聖書に明記されていると、これまでもキリスト教牧師や聖職者自らが堂々と公言していたようです。事実、その聖書注釈書の中で次のように断言しているようです。「カナン詛われよ(創世記9:25)この宣告はハムの子孫であるアフリカ人が奴隷にされたことにより、成就を見た。」と。
 これは、ノアの方舟の一節で、預言者ノアが六百歳のある時、酔って素裸で寝込み醜態をさらしたところをハムに目撃されたが、自分を責めるのではなく、ハムを責め、ハムの息子カナンに対し「呪われよ、カナン、兄弟達の下僕となれ。」と呪う場面があります。 ノアの息子三兄弟が各人種の先祖でヤペテは白人、セムはアラブ・ユダヤ人、ハムは黒人・有色人種の先祖とされており、このノアの言葉を根拠にして、永くキリスト教国は有色人種を奴隷化してきましたが、一九世紀に更にイギリス探検家ジョン・H・スピークが「ハム仮説」を打ち出し、白人は優れており(白豪主義)、黒人や有色人種を奴隷とし、有色人種の国々を植民地にすることは神の赦した当然の政策であるとの理論を打ち立て、聖書が植民地政策や奴隷制度の背中を押し続けたのです。
 この様な考え方の基に西洋各国は、全世界を毒牙にかけていったのですが、アメリカ合衆国そのものも一〇〇〇万人いたインデアンを虐殺淘汰して出来た国と言われています。清教徒がアメリカ大陸に渡った当初は、飢えと寒さに苦しみ、その年の冬を越せるか危うい状況でしたが、インデアンのある種族に親切にされ、生きながらえるのです。ところが、その酋長が死ぬと、その息子を殺しその首をさらし、その種族を虐殺し、婦女子は奴隷として売りさばいたのを始まりに、インデアン一〇〇〇万人の内の九五%を虐殺淘汰し、インデアンの食料である大陸に充満していたバイソンと旅行鳩も絶滅寸前まで殺し続けました。
 この様なことを正当化する言葉として一八四五年頃、米人コラムニスト、ジョン・オサリバンが言い出した「マニフェスト・ディスティニー(神の与えた明白な使命)」が叫ばれ、キリスト教的理念実現のため当然の行為として、むしろ推奨されていたと言えるのです。
 その証拠として、このインデアン虐殺について『白鯨』の著者ハーマン・メルビルは「我々米国人こそ現代のイスラエルびとだ」と言っています。この「イスラエルびと」とは、旧約聖書ヨシュア記八章二七節 「その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである」のことであり、「請願書」でも触れた残虐な神に命ぜられるまま、強姦と略奪と虐殺をほしいままにしてきた人々のことです。

旧約聖書にみる神による大量殺人(出エジプト前後の神とモーセ)

  • ファラオがユダヤ人の出国を認めないので、神が、その年にエジプトで生まれた赤ん坊を全員殺した。(ユダヤ人以外)
  • モーセが、ユダヤ人をエジプトから出国させる際に神が、追跡してくるエジプト軍を全滅させた。
  • 十戒を授かりシナイ山から下山したモーセが「黄金の子牛」を鋳造してどんちゃんさわぎをしている民をみて、その日のうちに三千人を殺害した。
  • モーセに盾突いたコラなど二五〇名を神が殺害した。
  • コラが殺された翌日、「主(神)の民を殺した」とモーセとアロンを非難したユダヤの民一万四千人を神が殺害した。
  • 異教徒の弊風に染まったユダヤ人を神の命令で2400人殺害
  • ⑥の異教徒の弊風に染まったのは、ミディアン人のせいであるとして、神がモーセに復讐を命じ、モーセは「処女以外皆殺しにせよ」との殺戮命令を下す
    • 兵士が女子供を生かしたままにしたことを神が怒り「戻って男子は皆殺せ、男と寝た女も殺せ、男を知らない処女はおまえ達のために生かしておけ」とモーセを通じて命じた。その上で略奪した羊や牛・財宝・処女をどう分配するか、民数記31章に詳細に記述されている。
  • モーセ没後、神が、後継者ヨシュヤに命じ、カナン制圧戦争を指揮して、カナン人の大量殺戮を行った

太平洋戦争への道のり

 この様なアメリカは、日本を敵対視するようになります。
 それはアメリカによるハワイ併合がきっかけでした。
 一八九三年(明治二六年)ハワイ王朝の女王リリオカラニが高額納税者に限った選挙権を貧しいハワイ島民にも付与する憲法改正を発表しました。その当時からハワイ王国の実権は入植していた米国系市民が握っており、これは米国系市民への宣戦布告とみなされ、アメリカ政府はすぐに戦艦ボストンを派遣して海兵隊が王宮を包囲して、女王を退位させ、米人サンフォード・ドール(パイナップル産業主)をハワイ共和国初代大統領に据えます。 これはテキサス併合とそっくりのやり方でしたが、この時、日本戦艦、浪速・金剛二艦で戦艦ボストンを挟み、浪速の艦長東郷平八郎は「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行している。危険にさらされた無辜の市民(米国市民と婦女子を含む)の安全のため保護に当たる」と宣言します。そしてドール大統領から共和国発足の祝砲を求められますが、『その要を認めず』と拒否し、他国もそれに倣ったため、世界の新聞は「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服するように静寂につつまれた」と配信したそうです。  
 この事件を米国人は「独立宣言以来、これほどの屈辱を米国が味わったことがあるだろうか」(L・ヤング著「真実のハワイ」)と根にもち、後の大統領セオドアルーズベルト(当時海軍省次官)が対日脅威を訴え、以後次々と対日封じ込めの布陣を築きはじめました。
 その一つが、フィリピンを植民地にして橋頭堡としたことです。フィリピンは元々スペインが植民地にしていましたが、アギナルドが率いる一八000人が独立運動を起こしていたのに目をつけ、彼らをスペインを追い出すまで援助しますが、スペインがフィリピンを放棄すると、すぐに取って代わって植民地の宗主国となります。これに怒り抵抗するアギナルド軍の戦意を喪失させるため、その家族や村等を襲い、非戦闘員二〇万人を四年間で虐殺したと米上院公聴会記録にあります。その中でも、戦闘で三〇人の米兵が殺された報復にレイテ・サマール二島の住民数万人を虐殺したサマール島事件や捕虜に対し五ガロン(二〇㍑)の泥水を無理矢理飲ませ、腹部に飛び乗って内臓破裂をさせる拷問などは、米国人の残虐さを示すものとして、今なお畏れられていると言います。(キューバのグアンタナモ収容所で現在もなされていたとして、オバマ大統領が謝罪)
 その後、日本駆逐のために中国に肩入れをして、ABCD包囲網を敷き、「ハル・ノート」を突きつけてきます。
 これは「中国大陸と仏領インドシナにある日本の権益を全て放棄すれば、ABCD包囲網を(解くのではなく)解くかも知れない話し合いをしてやる。」というものでした。この「ハル・ノート」についてインドのパール判事は「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも、矛を取ってアメリカに立ち向かうだろう」と述べたことは有名で、イギリスのチャーチル内閣のオリバー・リットルトン生産相は演説の中で、「日本人が真珠湾でアメリカ人を攻撃せざるを得ないほどアメリカは日本を挑発した」「決してアメリカが戦争に巻き込まれたのではない」と明言しています。
 このハル・ノートはハル国務長官が書いたことになっていますが、実はコミンテルンでソ連のスパイであったといわれるハリー・ホワイト財務省補佐官が日本も妥協の余地のあった本来の「ハル・ノート」を書き換え、フランクリン・ルーズベルトとチャーチルの承認をえて、議会にかけないまま日本に通告されます。

死身弘法の御法難について

 何故この様な非道が、日本に降りかかってきたのでしょうか。
 もちろん、キリスト教をバックボーンにした西欧諸国の悪辣さ故ではありますが、日本もまた西欧諸国と肩を並べるべく、夜郎自大な帝国主義に陥り、西欧と同様に近隣諸国を蚕食した結果、中国を第二の西部と目していたアメリカとの覇権争いという側面も否定できません。また、西洋諸国は、国家神道をカルトと認定していた様ですが、キリスト教というカルトの論理と宗教的嫌悪感によって引き起こされた結果なのかもしれません。
この様なキリスト教をも含めた宗教界のあさましさとおぞましさと恐怖が支配する時代背景の中で、日種・日哲両上人は真の仏教のあり方を曲げることなく御信心の正当を全うされたのでした。それが故の大麻焼却(謗法払い)であったのでした。
在家仏教教団であったためか、一般家庭として隣組組織から祭祀用神札の配布がなされたのを当初、受領拒否を申し出られたようですが、面倒なことに巻き込まれたくない隣組長が強制的に天照大神の神札(大麻)を配布し続けてくるため、勿論祭祀することなく焼き清めたのでした。いくら天照大神が曼荼羅にも記されているほどの神といえど、「手ほど世の中に有難いものはないと、手ばかり有難がり、全体を忘れ、しまいには手を全体から切り離して拝もうとする時には、手は何の役にも立たない死物となる」との譬えを日哲上人がよくされていたのを思い出されます。よってこの大麻を謗法払いされたのであります。
この御法難のきっかけは、ある時大政翼賛会が日種上人の処を訪れ、戦争における銃弾武器製造のため、お国のために、金属の仏具である御りんや蝋燭立てなどを寄付せよと言ってきたそうです。それに対し、日種上人は即座に「人を助けるは出家の役目、例え敵国人であろうとも人殺しの道具にするから国のためであるからと聞いても、おいそれと仏具を差し出すわけにはいかん。」と一蹴されました。それに驚いた大政翼賛会の一人があそこの寺は釣り鐘を、あそこの教会は半鐘を喜んでと供出してくれたぞ。と畳みかけてきたそうですが、それに対し、「賢は阿呆の真似はできんのじゃ。」と一喝されたそうであります。誠に痛快ではありますが、これが官憲の目をひくことになり、教団内にスパイが潜り込み、天照大神の御札を焼いたことが発覚し、結果この御法難となったのです。
 この様な世相の中で天照大神の御札を「焼く」というのは生半可な覚悟で出来るものではなく、単に勇気のある方だった位の認識にとどまることなく、当に両上人は昭和の大菩薩であったということを今一度心に留めなければなりません。
この様な国内の宗教的状況は、ちょうど日蓮聖人の時代と同じく結果的に「久遠実成の教主釈尊」をないがしろにした状況であり、経文及び「立正安国論」でお示しの通り数々の天変地異や自界叛逆の難(二・二六事件・五・一五事件等)そして、「他国侵逼の難」が起こりました。
本来信奉すべき法華経を捨て、御曼荼羅と日蓮聖人の御遺文に難癖をつけてきた当時の日本帝国と国家神道のあり方、それに異を唱えることなく迎合した日本の仏教界とりわけ大半の日蓮宗系教団のふがいなさがこの「他国侵逼の難」を招いたと言えるのです。

それらの事を充分踏まえた上で、日種上人、日哲上人は

  • 「我れ身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ。」(勧持品)の経文通りの精神で国家諫暁を敢行されたのであります。
  • 「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖あらん。悪鬼その身に入って、我を罵詈毀辱せん。我等仏に敬信してまさに忍辱の鎧を着るべし。」(勧持品)
  • 「此の経を説んが為のゆえに、此の諸の難事を忍ばん。」(勧持品)

と心に誓われたうえの事ではありましたが、昭和一七年六月二十二日、特高警察が踏み込んできて、両上人は逮捕拘束され、それから以後終戦の年まで獄に繋がれることになります。

 その取り調べは過酷で、銃殺をすると脅され、暴力を振るわれ、昏倒することが度々であったと述懐されておられました。
 しかし、取り調べに際しては、一歩も引くことなく、法華経こそが唯一国難を救う御法である事を折伏させていただくと共に「不敬罪というならば、あなた方こそ不敬ではないか。天照大神は今上天皇の御祖先ではないか。今上天皇が行幸遊ばすときは駅頭に赤絨毯を敷き、駅長はもとより知事・市長も居並びお出迎えをするが、この大麻は藁ムシロに包まれ牛豚と同等に貨物列車で運ばれ、駅頭に投げ捨てられる。各家庭でも、「今月のお札」と人の踏む上がりがまちに放り投げ配られているではないか。そのような行為こそ不敬であり、我らが粗末になってはならないと焼き清めたのとどちらが不敬というのか」との日哲上人の論に取調官も閉口する有様だったようで 、罪を認めることなく、両上人とも「此の経を説んが為のゆえに、此の諸の難事を忍ばれた」のであります。
 そして敗戦となり、上人らの次の生殺与奪の権を握っているGHQに対しても、臆することなく、強折されます。
 終戦後GHQからも、戦時中の思想犯の実態調査のため、取り調べを受けたのですが、その際には日種上人は、国際法で禁じられているはずの罪科のない一般民衆を大量虐殺した大空襲と原爆投下を「汝の敵を愛せよなどときれい事を言うキリスト教国アメリカは仮面を被ったジェントルマンである」と糾弾し、取調主任官E・H・ネルソン大佐に流暢な日本語で「あなた方こそ真の宗教家だ。」と言わしめ、立ち上がり握手を求められたそうであります。
 種々御振舞御書に「わずかの小島のぬしらが、をどさんを、をじては閻魔王のせめをばいかんがすべき。仏の御使いとなのりながら、臆せんは無下の人々なり。」(この様な御聖語が内務省に咎められたのですが)とありますが、「わずかの小島のぬしら(日本)」だけではなく戦勝国アメリカに対しても、堂々と法華経の精神を披瀝し、異教徒ならば一般民衆をも大量虐殺するキリスト教の本質を喝破し、強折されたその行いは、我々の誇りとして尊ばせていただくべきものであります。
 また、我々本門立正宗の信者が、今日何の虞もなく心静かに御信心が出来るのは、日種・日哲両上人の御労苦と御弘通御奉行の賜である事は言うまでもありませんが、この御法難時に、乳飲み子を抱えられながら、ひたすら教団を支えられた華圓上人並びに退転をせず御信行を保ち続けた篤信の物故功労者・信者の方々のお陰でもあります。
 一例を挙げると、昭和十五年に下関で入信されたI代講師は国鉄下関工事事務所に勤務しておられましたが、昭和十六年、陸軍に少尉として召集され戦地中支に赴かれました。戦地でも日種・日哲両上人の教えをしっかりと守られ、常に軍服の下にお数珠をかけられ、部下隊員に対しても法華経を勧められ、行住坐臥に御題目を唱えられる日々だったそうです。また、先述の通り、神社、祠等の前を部隊が通過する際には必ず部隊を神社に正対させ、「神社遥拝」の号令をかけるのが小隊長の役目であったそうですが、それも敢えて無視して通過していたそうです。よって、部下からは「法華経小隊長」と呼ばれていたそうですが、ある時、前線で弾が左手脇の下貫通という負傷をします。その傷はその後経過はよかったものの神経に及んでいたようなので内地で手術となり、成功しますがそのまま内地で終戦を迎えます。妻であるM代講師は名古屋勝川の日種上人から勝川で一ヶ月のお籠修行、一ヶ月秋田の実家で御信心をとご指導があり、夫が出征後それを続けておられましたが、御法難後は勝川に直行せず当時岐阜地裁でこの御法難の裁判を担当していたI代講師の兄上の処に行き情報を集め、且つ御法の正統性を少しでも理解して頂くべく側面から尽力されたのでした。(因みにこの兄上は後に名古屋高裁裁判長となり『津地鎮祭裁判』の違憲判決を出されます。)その御奉行と「法華経小隊長」実践のお蔭でありましょう、その負傷の程度が軽症ではなかったことが絶妙のお計らいであったと後に気づかれたのです。所属していた部隊はその後ほとんどの方が戦死されたとのことで、重傷でなければ内地にも帰れず、すぐ回復すれば前線に戻るところでした。
 これも、仏力経力に加え、M代講師の献身的な御奉行と真摯なご信行、I代講師の「法華経小隊長」を全うされた御信心等、夫唱婦随の信力の賜であります。 日哲上人御教歌に、「損しても病気をしても怪我しても 悪い日などは一日もなし」とありますが、その本来の意味は、この妙法を信受させて頂ける日々は、例え損をしたり病気や怪我をするような日があろうとも、唯々尊い有難い日々である、というご主旨でありましょう。しかし、今一つ、正直純粋に仏意に適った御信行を全うされていれば、このI代講師の現証のように、我等の無明凡智からすると一見不幸な出来事に見えることも、実は広大無辺な仏智による絶妙のお計らいであるやもしれぬということです。この事は有難い日種・日哲両上人の死身弘法の御奉行があればこその現証でありますが、両上人の教えを真摯に守り、どの様な苦難にも退転することなく支え続けられた御信行の賜であると、記憶に止めておかなければならない、当宗の宝とも、誇りとも言える現証であります。
 その事も決して忘れてはならないことであります。

結びに

 今の世相は、日蓮聖人が「立正安国論」で国家諫暁された当時と酷似していると言えます。その「立正安国論」には「皆正に背き、人悉く悪《邪》に帰す。故に、善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還らず。ここをもつて、魔来り鬼来り、災起り難起る《災難並び起る》。言わずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず。」とあり、まさに世界を震撼させているコロナ禍、度重なる大水害や頻発する地震、特に心配される南海トラフの大震災の予兆、既に起こった東北大震災、原発のメルトダウン、阪神大震災、更に周辺諸国の不穏な情勢等々。どれをとっても、御書のとおり「安国」に陰りがあります。故に同御書の「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。しかればすなわち三界は皆仏国なり。仏国それ衰えんや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく、土は破壊なくんば、身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならん。この詞、この言《この言、この詞》、信ずべく崇むべし。」の御言葉通りに、今こそ「立正」を実現させなければならないときであります。信者一人一人が、例え拙くてもいいので、一言でもまた一人にでもこの御法の有難きことを伝えさせていただく必要があると自覚すべきであり、それが当宗本門立正宗の基本であり原点なのであります。
 この御法難について、当宗信者は日種・日哲両上人の偉大な御弘通御奉行に報恩感謝させていただくと共に、高祖の「立正安国論」の趣旨を深く心に刻み、何より我等が誇るべき日種・日哲両上人のこの御法難時の菩薩行を広く喧伝し後世に残すことこそ、当宗信者の務めと再認識させて頂きたいと思うものであります。

故に日哲上人御教歌に
おのが身の命惜しまず御弘通のために尽くすぞ地涌の流類
これほどの果報の生死候わじ法華経故の難ぞうれしき
法華経を説かずば仏の種を断つ障礙おそれず説けよ人々

中川 日衛

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