当宗の信仰に対する基本的考え方について
~日種・日哲上人御法難会に際して何故宗教的純粋さを求めるのかを考える~
当宗は日種・日哲両上人の偉大な御弘通御奉行に報恩感謝させていただき、大麻焼却による御法難を誇りとさせていただいているのですが、この国家弾圧に屈した教団からすると、今となっては面白いはずもなく、影では偏狭であるとか、もっと他の宗教に対しても寛容であるべきだ等との陰口が聞こえて来ます。それに同調して近親者までもが、我々の姿勢に批判的であったりもします。
それは、日々の信仰生活に影を落とし、宗教的な純粋さを堅持しようとすればするほど、軋轢が生じ、ストレスを感じざるを得ないのが現状です。
そこで我々は「何故宗教的純粋さを求めるのか」について、原点に立ち返って、思い起こすことが、真の意味で御信心を深めることに繋がると考え、以下宗教的純粋さについて触れてみたいと思います。
まず、持妙法華問答鈔に「法華独りいみじと申すが心せばく候わば、釈尊ほど心せばき人は世に候わらじ」の御聖語がある事に注目すべきです。これは釈尊の御本懐をこそ我々は大事にすべきで、それは釈尊御自身が、他の御自身の教え方便権教には真実はなく「正直捨方便」と御厳戒されているのです。
法華経の視点に立った時、この世に矛盾があれば、抗い、糾し、より良き世界に変革させるために、自らが当事者となり娑婆世界を理想の社会に変革させることを諦めない心が菩提心と言えるでしょう。そしてそれを実行するのが菩薩行なのです。それまでの歴史において日蓮聖人を除いてそれを、命がけで実行した人師はいませんでした。日蓮聖人は大難数を知らずの御法難にも臆することなく、娑婆こそ御仏の在す仏界との法華経の教えに生きて、全ての衆生を一乗妙法に導き、仏国土の住人たらしめんとした御生涯であられました。この世に仏国土を実現できるのは法華経しかない故に、この法華経を否定する教説が蔓延している現状を打破するには決して寛容ではいられなかったのです。そして、それに倣う多くの先師上人も時の権力者や他宗の弾圧により迫害を受けてきましたが、昭和の国家神道に抗い糾し、御法難にあったのは、日種・日哲両上人より外には居なかったようです。
では何故そのように命がけで諫暁をする必要があるのでしょうか。 それには法華経とはいかなる教えなのかを知る必要がありそうです。
釈迦牟尼如来の御本懐である法華経の重要な御教えに『一念三千』と「久遠実成」があります。
令和5年6月1日
中川日衛
【一念三千とは】
一念三千の一念とは 一刹那(一瞬)の念慮のことであり、人間の一刹那の心の動きのなかに三千におよぶ世界を有しており、特に我々凡夫の心のなかにも「仏性」が実在するという法門なのです。
日蓮聖人は 「一念三千こそ、仏になるべき道とみゆれ」(開目抄六〇四)
「一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏なり」(開目抄五八九)
と述べておられ、成仏(仏様のような境界になる事)を可能にする原理は一念三千を悟る事だと示されています。では三千とはどの様な内容なのかというと、まず十法界として、 最下層から①地獄②餓鬼③畜生④修羅⑤人間⑥天上以上、六界は迷える有情として、六凡又は六道とも称すのですが、地獄・餓鬼・畜生は正邪の別を知らない者達の世界であり、修羅・人間・天上は覚りの境地があるを知らない者達とされています。更に⑦声聞⑧縁覚⑨菩薩 ⑩仏 (理・智・悲、円満な永遠普遍の霊格者)と分析選別されていますが、この十法界の一つ一つに更に十法界が互いに具わり合っており、つまり、どんな極悪非道な地獄のような心持ちの者の中にも仏界が存在するという御法門で、反対に仏様の中にも勿論地獄の要素があるという教えです。この事を十界互具といい、三千とは十法界が十界互具して百界、百界の一々に十如是を具するから千如、千如は五陰・衆生・国土の三世間にわたるから三千世間となり、数の上からも三千となるため、これを一念三千と言います。
この教えは、単に人間を性善説や性悪説などのように、簡単に色分けして議論し続けてきた既成の哲学や人身観を瞬時に沈黙させる圧倒的な哲理がそこに示されている御法門と言えるのです。
また法華経に「今この三界は皆是れ我が有也。その中の衆生は悉く是れ我が子なり。而も今この処は諸々の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す」とありますが、我々は悉く、有難くも釈尊の子供であるならば、語弊を恐れず譬えると、仏性という謂わば遺伝子とも言うべき「久遠実成の釈迦牟尼仏と同様に尊い」ものを確かに授かっているのです。その事に先ずは気づくことが大事ですが、それは必然的に今の自分の至らなさ、つまり、御仏と自分の大きなギャップにも気づかなければなりません。地獄や餓鬼や畜生にも似た自分も又現実であると自覚した上で、深く省みると共に、他者の仏性への素直な尊崇の念を持つことが大事で、その様に生きることによって、今生は短き人生ではありますが、豊かで平穏な人生に好転するのです。今こそ法華経による成仏の修行をすべき時と、思い定めることが何より大事なのだと説き示されているのです。
【久遠実成とは】
この法華経による成仏の修行が素晴らしき来世に繋がり、永劫の存在である御本仏釈迦牟尼如来と共に存在し続ける「久遠実成」という法門に繋がるのです。
久遠実成とは、法華経如来寿量品という経典に「皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず。道場に座して阿耨多三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百萬億那由佗劫なり。」と釈尊の本来のお姿が明らかにされた大変有難い法華経の根幹の御教えです。
我々は有難くも御仏と同じ仏の要素を持っているだけではなく、その命も共にあると説かれています。久遠の寿命の本仏釈迦牟尼如来と同質のものを持つ私たちの妙業も又、生老病死はあれど永劫の時間の中に存在し続けるものなのです。であればこそ、この現世を如何に過ごすかが大事になってきます。より良き来世・いや現世における未来のためにも、今こそ御仏の教えに従って、題目口唱を怠らず成仏を目指して、有意義な人生を全うしなさいというのが、法華経の大事なメッセージなのです。
この事を、敢えてシンプルに云うと、「あなたは仏に成り得る尊き存在である。その事に気づけ。」という御教えで、その事は勿論、己の尊さばかりではなく、他の全ての存在(生命)もまたその心のなかに「仏性」が実在する尊き存在(生命)であるというものなのです。故に、全ての人の仏性に礼拝合掌して、その事を気づかせる但行礼拝をされ続けた、不軽菩薩等の菩薩行が説かれているのが法華経という経典なのです。この教えを盗んだ諸宗の開祖等の中には、これを汎神教的に捉えて、迷える凡夫もそのままで皆仏と短絡して仏道修行も不要などと云う愚かな説を唱える者も出てくるのですが、そもそも、仏の御名も聴かず、その存在に気づきさえしなくなった末法と言われる現代では、我々凡夫の心のなかにも「仏性」があると云われたところで、その本当の姿を知るよしもありません。この様な 我々凡夫のことを「無明の凡夫」と言い、たとえ 我々が成仏できる由縁は、仏性が己心(自分の心)に備わっているためではあるという大事な有難い法門を聴いても、本当の仏つまり本仏である「久遠実成の釈迦牟尼如来」のお姿に出逢わなければ、いつまで経っても自分の心の中に存在する尊き仏性も解らず終いです。つまり、(結)果たる本仏(仏果を成じた根本仏)に出逢い、その導きの光を浴びなければ、いつまでも我々凡夫は無明のままなのです。 故に、何より「まず本仏ありき。」であり、本仏である「果」より、仏に成る前の仏性という「因」の状態の我等凡夫に及ぼされる広大な智恵と働きと慈悲により、初めて成仏(尊きものとなる可能性があるにすぎない自己が真に尊き存在になること)が可能となるのです。つまり、迷える凡夫はそのままで皆仏であるはずはなく、仏に成る可能性があるにすぎない存在が我等なのです。故に「見仏の因縁」(御仏にお会いする・出逢う機会、ご縁)こそが大事であり「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず。」(法華経寿量品)の実践として、「南無妙法蓮華経」と唱えさせて頂くのです。そして、この題目を唱えるとは、この法華経の教えを体得するためにあるとも言えるのです。
日蓮聖人は、この御題目には釈尊の因行果徳(因行=遠い過去世からの仏様御自身がなされた修行や人を助ける菩薩行・果徳=それによって得られた功徳、悟り・仏果のこと)の二法が具足しているので我等の様に智慧浅く薄徳の者は、この妙法蓮華経の五字を受持させて頂けば、自然と久遠の御仏の因果の功徳を譲り受けることが出来る。故に、素直な気持ちで、「南無妙法蓮華経」と御題目を唱えなさいとお示しであります。
南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経つまり法華経の御教に帰依する(信順する)という意味ですが、単に此の経に帰依するという事のみならず、「妙法蓮華経と申すは、一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり体なり所詮なり。」との御聖語の通り、この経に説かれている真実{諸法実相}・仏智・大慈悲に帰依(南無)することとされています。成仏とは本門の一念三千の体得であるのですが、「この一念三千も、我等、一分の慧解なし。」(開目抄)ともいわれるくらい更に奥が深く、私たちには正確に理解し、悟れない。そこで、「以信得入」(「信をもって入ることを得たり」と訓む。法華経譬喩品の「汝、舎利弗すら尚、この経においては 信をもって入ることを得たり。況んや余の声聞をや。その余の声聞も 仏の語を信ずるが故に、この経に随順す 己れの智分に非ざればなり」と。仏弟子の中で智慧第一の舎利弗すら智慧をもってしては法華経の真意の体得は不可能で、仏語を信じ随順することのみが仏道成就の要諦であるとの意)「以信代慧」(「信」によってのみ「仏慧」を受領することができるという日蓮聖人の聖意)によってお釈迦様の悟りそのままの一念三千をお譲り頂き会得するために御題目を唱えさせて頂くのです。
ですから、常に我等が真剣に向き合うべきは、本仏である「久遠実成の釈迦牟尼如来」であり、信じ実践させて頂くのはその事が説かれている「妙法蓮華経(=法華経)」であり、その「妙法蓮華経」に帰依し信順する事を誓い、「南無(帰依するの意)」を冠し「南無妙法蓮華経」と唱えさせて頂くのです。
そもそも我等は、否応なく多くの尊い他の命を頂いて生かさせてもらっております。故にその事に感謝もせず、心にも止めず、生を終えると堕獄(地獄行き)は必定とも言われております。あらゆる尊き命への感謝と追善回向も、その尊き仏性の本質・根源である本仏に正面から対峙し帰依し感謝してこそ伝わり、成就するのであるが故に、その事にも日々感謝の念を以て「南無妙法蓮華経」と唱えさせて頂かなければならないのです。
その様な信仰生活を信者の子弟の幼い者にも、実践してもらいたいのですが、だからこそ、狐・狸等の動物の類がご神体のものや、元を正せば悟りを得ていない何かの功績や厄除けのため祀られている成仏はもとより解脱さえしていないような人物をご神体にしている神社、また、仏教でも釈尊が法華経を説く以前に方便(仮)の教えとして説かれた阿弥陀仏や大日如来に闇雲に手を合わせることのないようにして、常に「久遠実成の釈迦牟尼如来」に対峙する(正面から向き合った)信仰こそを理想とし、実践しているのです。
清き水を飲むに際しては、汚れたコップはしっかりと洗い清めて使うように、私たちは常に清純無垢な信仰を目指しているところですが、その様な信仰生活の中に無遠慮に、いつの間にか土足で入り込んでくるかの如くの宗教色のある、あらゆる謗法の要素は厳然と拒否峻別する信仰心が大事なのであります。まして況んや、宗教の名において、何千万いや遙かに億という数の人々を殺害し傷つけ、奴隷として、または非植民地の民として搾取し続けてきたキリスト教というカルトの祭事クリスマスなど、もっての外で、習俗のようになった、これらの祭事に対しても倦まず弛まず「否」を突きつけ続けることが、当宗信者の責務なのだと覚悟していただきたいのであります。
しかし、巷間では宗教とは寛容の精神が大事とよく言います。故に我々のような考えを不寛容だと決めつけ、耳を傾けようとせず、軽視若しくは無視するなどして、自分と感性や意見の違う者として排斥する傾向があります。しかし、これこそが非寛容なのであります。それにも耐えて更に、少しでも解ってもらおうと、真っ当に意見を開陳すると、我々に対し「排除する差別」をしていると批判するか、あからさまにネグレクトします。そして、寛容の精神で何でも受け入れるのが宗教ではないかと、「同化」を迫るのです。しかし、これらの人々は、差別をするなと言いながら、「同化を迫る差別」を強いていることに気づいていません。
ロシヤによるウクライナ侵攻や目の前に迫る台湾有事、更には北朝鮮のミサイル等の不穏な情勢だけでなくコロナ禍、度重なる大水害や心配される南海トラフの大震災の予兆等、この日本の不安を払拭するには、「立正安国論」に示された如くに、立正をこそ確かなものにして安国を図ることが今切実に求められているのです。
この回帰妙法による一国全体の仏国土化には諸宗謗法の根絶を目指すより他はありません。破邪顕正は我ら法華信徒の覚悟でなくてはならないのです。我らが恩師、法照院日種上人と顕正院日哲上人は、高祖聖人と同じく寛容により謗法の雑物混淆を決して許されなかったのです。それ故の国家神道への諫暁『大麻焼却事件』であり、戦後も日哲上人は一貫しての各方面への折伏を推進されていたのであります。
日蓮聖人並びにそれに倣う日種上人と日哲上人の謗法に対する執拗なまでの折伏諫暁は信仰者としての誠実であり、慈悲の発露なのであります。日種・日哲上人御法難会に際して、このことを今一度、深く胸に刻み折伏・御信行の励みとさせて頂きたいと考えるものであります。





