本門立正宗とは

目次

本門立正宗はお釈迦様(釈尊)の御本懐「法華経」を日蓮聖人のように弘める在家仏教教団です。

釈尊の御教えは人々をご自分のような境界に導くためにあった。

 人々は四苦八苦の人生に呻吟(しんぎん)するかと思えば、安易に享楽の世界に溺れ、折角この世に生を受けても、この世に尊き境界があることに気づかないまま短き人生を儚く終える。この儚き無常の世界の実体にしっかりと向き合うように導くことにより、その先にある仏の悟りの尊き世界があることを示して、苦を克服した悟りの境界、即ち大安心のもとに生きる方法を50 年の間教えられたのが、釈尊の御生涯でした。

釈尊は初めから法華経を説こうと思っておられた。

 実は釈尊は最初から法華経の悟りの真実を説こうと思われていました。その内容は何かというと 、「我が如く等しくして異なることなからしめんと欲して」であり、いかなる衆生も私のような存在となれでした。その事は決して不可能ではなく、皆の心には私即ち仏と同じ仏性を具有(ぐゆう)しているからです。誰にでも、仏になることは可能であるというものですが、目先の苦や欲望に囚われ続けている凡夫からすれば、仏の境界の釈尊を仰ぎ見ても、その当時の人々にとっては夢物語に過ぎないものだったかも知れません。
 その当時は、何より、衆生はそもそも、目の前の苦の克服がままならない。根深い差別と不平等が現実世界をより生きにくいものにし、宗教は病気も悩みも加持祈祷のような呪術的なまやかしで誤魔化しているのが現実でした。これでは、苦を真の意味で克服することはかないません。

釈尊は悟りの世界と自らの手で苦の克服する方法を示された。

 そこで先ずは此の苦に向き合いその苦を克服するため、苦の原因とも言える煩悩への執着を滅し、解脱を目指すことが説かれます。
 戒律を厳正にして八正道の実践を説かれ、その事により、仏の説く仏教の世界が垣間見て、多くの者は大いに仏道を目指す気運が高まります。しかし、これ等を修行するうちに我が身の解脱ばかりに目が向き、他者の苦の克服には無関心になり、他者を救う利他の志が失せる者が大半を占めてしまいます。これが所謂自分だけの解脱のための小さな乗り物のような教え、小乗教と言われるもので、後の利他を大事な修行と見做す大乗の教えを信奉する者からは、批判の対象となります。
 そのように仏は、聴く者の性格や能力、功徳に合わせて、仏の色々な側面を表した仮の仏を説き、無尽の法門を示しました。これを衆生の心に合わせた教えという意味で随他意の法門といいます。それから次第に他の衆生をも救おうとする精神を育み、大乗の教えを説かれました。それは小乗の教えを合わせて42 年間の説法でしたが、これは、法華経という大きな塔を建てるためのいわば準備の教え、つまり足場のような教えだったのです。これを方便(ほうべん)の教え(仮の教という意味で権教)と言い、その中から奈良仏教・浄土宗・真言宗・禅宗等の宗派が生まれたとされます。
 しかし、この42 年の間に説かれた教えには決して釈尊の悟りそのままとは言えず、御本懐の教えではなかったのです。
 この方便権教の後、無量義経という教えで、今までの教えは未だ真実を表していなかったと宣言されて、それ以後、釈尊が御入滅になるまでの八年間に説かれたのが法華経なのです。この法華経は、聴く者の性格や能力、功徳によらず、釈尊の悟りのままを説かれたました。故に法華経は随自意の教え、つまり、釈尊の悟りを御自身の心のままに説かれた教えといわれるのです。
 この様に、これらの五〇年の説法は華厳部、阿含部、方等部、般若部、法華部と大きく分けて五つに分けられるとされています。

法華経が第一であるという根拠は経典に示されているのか。

 釈尊は、いよいよ法華経を説くにあたって、いままでの42 年間の教えは真実ではないと無量義経という経典で宣言されています。この経には、「四二年未顕真実」と、今まで説いてきた方便の教えは真実ではなかったと、はっきりと明示されています。更には、それから八年の間、法華経を説かれましたが、その法華經の初め「方便品」には「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)」とありますが、これは42 年間の方便、仮の教えは正直に仏の言われたとおりに捨てなさいと説かれています。
 以下がその文証とされる経文です。

無量義経(説法品)

「衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種々に 法を説きき。種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には、未だ真実を顕さず。(未顕真実) この故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。」

方便品

「正直に方便を捨てて但無上道を説く。」

薬王品

「諸々の如来の所説の経の中において、最もこれ深大なり。」

宝塔品

「是の如し、是の如し釈迦牟尼世尊所説の如きは皆是れ真実なり(皆是真実)」

涅槃経

「文辞一也といえども、而も義 各異なる。」

法師品

「已今当」三説超過の教え
「我が所説の経典、無量千萬億にして、已に説き、今説き、当に説かん而も其の中に於いて、この法華経最もこれ難信難解なり。」

注解~ 已とは四十余年方便権教のこと
今とは今説いたばかりの無量義経
当とはこれから説くであろう涅槃経
難信難解とは最為第一」「超勝」「最も優れている」の意

法華経には何が説かれ他の経典とどこが違うのか

 法華経の「一念三千」と「久遠実成」の法門により、自他共の真の尊さが示され、永劫の時間軸の中に存在する仏と自分を認識することにより、悔いの無い充実した人生を見出すことが出来ることが明かされました。釈尊は自ら法華経以外は真実ではないと明言されたのですが、ではこの法華経には他と違う何が説かれているのでしょうか。この事について、法華経には他経と異なる二つの大事なことが説かれていると、日蓮聖人は示されています。

それが「開目鈔」の

「予、愚見をもて、前四二年と後八年の相違を鑑みるに、まず世間の学者もゆるし、我が身にもさもやと、うちおぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし」であり、また「小乗大乗分別抄」には「二乗作仏久遠実成をもて諸経の勝劣を定む。」と示されています。そして「二乗作仏なきならば、九界の衆生の成仏あるべからず。」と断言されているのです。

 この二乗とは「我等仏に従い奉り、涅槃一日の価を得て、以て大いに得たりとなし、この大乗に於いてすること無かりき。」といった考えにとらわれた十界の中の声聞・縁覚のことで、仏から「宇宙法界と無関係に単に自己のみに執着して、迷悟を決する事のみに心を囚われ、自他平等の精神を持たぬ者」として法華以前の経経では灰身滅智」「煎った種から芽が出ぬ」のと同様に「永不成仏]であると成仏が出来ない者とされていた人々なのです。

注解~縁覚とは、飛花落葉を見て自ら無常を悟る者をいう
声聞とは、教を聞き、この世の無常を悟る者をいう
この様に、二乗は法華経以前の教えでは成仏できないとされていましたが、法華経に至って初めて成仏が許されたのです。

それはなぜか?

天台大師は、法華経方便品の「所謂諸法の如是相・如是性・如是体」等により十如是を説き起こされ、法華経常不軽菩薩品の「我れ汝等を軽しめず」「当に作仏することを得べし」を人々に仏性のあることを示した典拠であると解釈され、涅槃経の「一切衆生悉有仏性 (全ての者の心の中に仏性がある意)」等を根拠として、一念三千の法門を示され、この事により、法華経とは全ての衆生に仏性あるが故に成仏できる由縁(理)が明かされている経典である事を明らかにされ、故に法華経こそが唯一我ら衆生が仏と同じ境界になり得る(理)が説かれた経典であると示されたのです。これにより、二乗に限らず女人も、愚者も、悪人も全ての者が成仏できる理を法華経においてはじめて説き明かされたのです。この事がまず他の経典に比べ法華経が有難い理由だと日蓮聖人は強調されました。また、法華経如来寿量品において仏とは「久遠実成」の時間軸の中にある存在であることが初めて明かされ、今までの方便仮の姿の仏や、始成正覚(インドではじめて修行の結果悟りを得たという意味)の仏身観を打破されました。この事がこの一念三千の法門をより深いものにすると共に更に深遠な悟りの世界が示されますが、それは後述します。

一念三千とは どのような法門か

1

「常に口ずさみにすべき事は、南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。」(十章抄)

2

一念とは一刹那の念慮のことであり、人間の一刹那の心の動きのなかに三千界を有しており、特に我々凡夫の心のなかにも「仏性」が実在するという法門で日蓮聖人も

「一念三千こそ、仏になるべき道とみゆれ」(開目抄)
「一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏なり」(開目抄)
「一念三千の法門は、仏の父、仏の母なるべし」(聖密房御書)

と述べられている通りであり、成仏を可能にする原理は一念三千を悟る事だと示されている。

 この一念三千が説かれたことと釈尊の本地、久遠実成が説かれたことによって、今までの爾前権教との勝劣が決定的になる。そのことを高祖は

「予、愚見をもて、前四二年と後八年の相違を鑑みるに、まず世間の学者もゆるし、我が身にもさもやと、うちおぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし」、「二乗作仏久遠実成をもて諸経の勝劣を定む。」

と述べられているのです。

 二乗とは、「自己の迷悟にのみに囚われた自他平等の精神を持たぬ者」として法華以前の経々では「煎った種から芽が出ぬ」と成仏を許されなかった者達ですが、実はこれは他人事ではなく、この二乗根性は我等にも具わっています。であるならば、一念三千・十界互具が明かされ、二乗作仏が約束されない限り、我々の成仏はないこととなります。即ちこのが説き明かされ、二乗を含め全てに仏性が内在する事が明かされた故に、九界の衆生も皆、成仏できる道理が示されたのです。

 その様な意味からも「一念三千こそ、仏になるべき道」なのです。この様に一念三千とは法華経の最も大切な法門の一つなのです。これは単に心の内に仏性を含め三千の要素があるといった内容に止まらず、まさに、「唯仏と仏とのみ」しか理解しえない深遠な「諸法実相」が籠められた教理であるとも言えます。この御法門は、ただわが心の一刹那の実相を説き明かしたものではなく、この娑婆世界の実相にも相通じるものであるといわれています。

 まず十如是の、「如是因・如是縁・如是果・如是報」に注目してみると、我が身の中に久遠という時間軸が垣間見えます。私という個人が存在する「因」は当然、両親の存在あってのことであり、その両親もそれぞれの両親、つまりは祖父母の存在がなくては存在しない。こうして先祖を辿って、日蓮聖人がお生まれになった八百年前まで遡ると、直系の先祖だけで今の日本の人口を遙かに超える数となります。その中の一人でも欠けたとしたら、私は存在しません。そしてこれからの未来も、子供を産もうが産みまいが、私という存在は、食物として多くの生命が我が血肉となり、それも一年もすれば、殆どの細胞は入れ替わるようで、新陳代謝や排泄等の生理作用によっても、更に多く微生物などの命と繋がり、死後灰になったとしても、生物学的には分子レベルで、全ての存在は互いに具わり合い関わり合い続けるのです。それは、分子レベルの物理的なことだけではなく、精神においても、永劫に何らかの影響を及ぼし続けると言えるでしょう。国土世間についても、何より地球あっての国土であり、宇宙あっての地球であるならば、非情界をも巻き込んだ、まさに広大無辺な宇宙法界を舞台にした教理なのです。

 衆生世間も、独りだけでは存在しえない人間は、赤の他人同士であれ、その存在に互いが日々助けられ、また助けては依存し合い、害し、害されての反発も含め、深く関係し合っています。その様に考えると、今ある自分の命は単に自分だけのものとは言えなくなります。一切と濃密に深く関係し合い、具わり合っていることに気づかされます。であれば、自分だけが幸せであっても、他が不幸であれば、それは真の幸福とは言えないということをも思い知らされます。全ての存在は、無限の広がりと深い繋がりを持った生命であるとも言えるのです。この事が十界互具の教理の根幹であるとも言え、それが、全ての者は等しく尊いという平等大慧の教えにも繋がり、この御教えによって、久遠実成という永劫の時間軸の中に在る仏の世界と、儚く切ない我らの命とが、円融同居する仏の世界が垣間見えるのであります。

 仏教の基本的な教理として、「縁起論」があります。一言でいえば「一切は互いに関わり合い、影響し合って存在しており、独立して存在するものは一切ない。」というものです。しかし、その教理がありながら、法華経の説法のはじめ方便品で、舎利弗尊者が釈尊に「具足(そなわること)の道を聞きたてまつらんと欲す。」と懇願されました。

 そして、方便品で「所謂諸法の如是相・如是性・・・」と十如是が説かれ、一念三千・十界互具の教理となるのです。 法華経は、一念三千の法門を顕らかにして、「縁起」から「互具」へとその教えを更に深め、釈尊の覚りの本来の姿を明確にされたと言っていいのです。

 縁起の場合は、全ての存在は影響力という絆で結ばれているものの、あくまでその存在は別個の存在とされるが、一念三千では、全ての存在は、実はお互いに具わり合い、関わり合っていて、究極的には同体とも言えるのです。それが、観心本尊抄の「所化以て同体」の御聖語にも繋がり、核心の覚りの世界が示されます。それは、単に縁起を覚ろうとも到達しえない境界と言えますが、但し、何を以て同体とするかは、偏に一念三千の極理にその答えはあると言え、己心に久遠の本仏が住する事が核心と言えるのです。

久遠実成の本仏とはどのような法門か釈尊の本地開顕(お釈迦様の真実の姿、久遠実成を顕わされた)

 釈尊が説法を初めてから法華経の前半に至るまで、人々は釈尊をマガダ国の王子が修行を積んで悟られた始成正覚の仏と思っていました。ところが、法華経の後半の寿量品でご自分が「久遠実成の本仏」であると告げられたのです。初めのない初めから、終わりのない終わりまで、つまり永遠の仏であり、過去・現在・未来に渡って人々を救済し続けていると述べられたのです。この事によって、真の仏(本仏)の存在と私たちの仏性の本質が明かされました。
 この事は、一念三千によって明かされた自分自身に具わる仏性は、永劫の時間と広大な空間の中に実在する本仏と法に円融同化しうるものとして、真に尊き輝きを発する存在に昇華しうるものであることが示されました。
 それが成仏するということであり、その仏の境界を我が身に実現することが、仏の望まれたことであり我々が目標とすべき事です。

久遠実成の本仏についての文証は

一 開目鈔

「一切経の中にこの寿量品ましまさずば、天に日月の、国に大王の、山河に珠の人に神のなからんが如し。」

「皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず。道場に座して阿耨多三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより このかた、無量無辺百萬億那由佗劫なり。」

「我れ仏を得てより来経たる所の諸の劫数、無量百千萬億載阿僧祇なり。」

「諸の善男子、我れもと菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だつきず、また上の数に倍せり。然るに今実の滅度に非ざれども而も便ち唱えて当に滅度を取ると言う。如来は是の方便を以て衆生を教化す。」

「仏既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。」

「法華経を信ぜざる人の前には釈迦仏入滅を取り、此経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏在世なり。」

主・師・親・三徳兼備の本仏の顕現

「今此の三界は皆是れ我が有なり(主) 、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり(親)、而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す(師)

三身即一の本仏の顕現

「法華経前後の諸大乗経一字一句もなく、法身の無始無終は説けども、応身、報身の顕本は説かれず。」

この様に経文御書に説かれた釈尊の本当の姿即ち久遠実成というのは、単に永遠な抽象的理法や真理といった側面だけでなく、また歴史的にインドに出現して八十才で亡くなられた有限な釈迦にとどまる事無く、時間、空間を越え、しかも現実世界に活現し躍動する理、智、悲の当体たる実在永遠の生命であり、真実の法そのものとも言える実在なのです。

では一体法華経を説かれた理由は何か?

1釈尊の本懐(一大事因縁)

「我もと誓願を立てて一切の衆をして、わが如く等しくして、異なることなからしめんこと欲しき、わが昔の所願の如き、今は己に満足しぬ。一切の衆生を化して皆仏道に入らしむ。」方便品

「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん。」化城喩品

「毎に自ら是の念を作す。何を以ってか衆生をして、無上道に入り速やかに身を成就することを得せしめんと。」{古来から「毎自の悲願」と云われ束の間も休むことのない済度の慈念を語られている。}如来寿量品

開示悟入{かいじごにゅう}

「衆生本有の仏智見(仏性)を開き示し悟らせ入らしむる事」 方便品

「諸仏世尊は衆生をして仏智見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。」方便品

では どうすれば仏智見を開くことができるか?

「発迹顕本せざれば真の一念三千も顕れず」『開目抄』

 日蓮聖人は迹門は久遠実成が顕されていない段階の法門であるから、本門とは雲泥の相違が生じるとされ、『富木入道殿御返事』には「本迹の相違は水火、天地の違目」であると述べられています。その本門と迹門との法門の違いは、本門に至って久遠実成の教主釈尊を説き顕し、迹門の伽耶始成の法門とは大きな転換を示されています。この本門迹門の相違を正しく認識した信行により、果たる本仏から我等凡夫に及ぼされる慈悲・功徳により悟れる世界を本化地涌の首導上行菩薩の教化によって、無明の末法我等凡夫も受持する事が出来る、即ち仏智見を開くことが出来るのです。そもそもこの本門の教説とは末法の救済こそが教主釈尊の法華経宣説の真の目標であり、その久遠実成教主釈尊の悟りと実在こそを基として明らかにされる法門なのです。

本門と迹門の相違

※仏界所具の九界について

今本時の娑婆世界は三災を離れ四却を出たる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。」

(観心本尊鈔)

所化衆生もまた常住なり

※四却とは小乗の世界観の一つで、「成立・存続・破滅・空虚(成住壞空)」の繰り返し。

  • 観心とは 自ら進んで一乗妙法{南無妙法蓮華経}を信じ、久遠実成の本仏を仰ぎ、それらを心に観ずることにより、現実の娑婆世界のまさにこの処に永遠の世界{浄土}を現じ、感得・信行すること。
  • 迹門とは、無明に視点を置き、凡夫の中にある仏性を説き明かして、九界所具の仏界が「従因至果」により始成正覚の仏となるとする理の法門である。
  • 本門とは、仏界つまり覚りの境地、普遍絶対の世界から仏眼を以て説き明かす仏界所具の世界観である。是を仏界縁起といい、其の中心に据えられるべきは本地仏たる「久遠実成の本仏(釈迦牟尼仏)」である。我々が成仏できる由縁は、仏性が己心に備わっているためではあるが、果たる本仏の光を浴びなければいつまでも無明のままである。つまり「まず本仏ありき。」であり、本仏である「果」より「因」に及ぼされる広大な智恵と働きと慈悲により、初めて成仏の実事が可能となるのである。故に「見仏の因縁」が大事であり「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず。」の実践を説く、事の法門である。

では真の本仏に遭い奉る手立てとは何か? 

御題目(何故御題目を唱えるのか?)

一 御仏・日蓮聖人出世のご本懐

「諸仏出世の本懐たる 南無妙法蓮華経」 (最蓮房御返事)
「今日蓮は、・・(中略)・・ 二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。」 諫暁八幡鈔

「十界互具の仏語分明なり、然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難きなり。」(観心本尊鈔)

 教主釈尊の尊さが絶大であればあるほど、我等末法劣悪な凡夫が真の一念三千の理・事は理解しがたく、かつ能化(仏)所化(衆生)ともに常住なりとの境地に立ち、釈尊の因行  果徳を心に備えることは難事である。
 何より、仏の境界になるとは、その悟りや智慧を我がものとするだけではない。何より、仏の功徳と同じような境界になるということでもあるので、私たちは、御仏の大慈悲心をまねて多くの迷える人々を法華経に誘い救う仏が如くの功徳を積まなくてはならない。しかしこの事も容易なことではない。そのような衆生に対し「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲心を起こして五字のうちに此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けましめたもう。」 とある如く、我々凡夫に 「南無妙法蓮華経{お題目}」を説き残されたのである。 

その御題目の功徳については
「釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。」と説かれており、我々が自ら仏様と同じような救済という崇高な行為をしなくても、この御題目を正しく口唱させて頂きさえしたら、「釈尊の因行果徳の二法」を我がものとすることが出来るのだと約束して下さっているのである。

題目とは

1「経典の名称」・2「法門の名称{教名}」・3「法門そのもの」 4「法門の象徴」・5「経典の精神」・6「功徳の結晶」7「生身の釈尊」・8「法界そのもの{諸法実相}」である。

※諸法実相鈔に
「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり、諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。萬法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を、諸法実相とは申す也。」
南無とは帰依・帰命することであるが、「南無妙法蓮華経」とは単に此の経に帰依するという事のみならず、この中に説かれている真実{諸法実相}・仏智・大慈悲に南無することである。

「妙法蓮華経と申すは、一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり体なり所詮なり。」

「妙法蓮華経の中には、一部八巻二十八品六万九千三百八十四の文字もれずかけずおさしめ候。」

「要を以て之れを言わば、如来一切所有の法、如来一切自在の神力、如来一切秘要の藏、如来一切甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す。」(如来神力品)

  • 如来一切所有の法{法}仏の説く一切の教法
  • 如来一切自在の神力{妙}仏の持つ一切の力・働き
  • 如来一切秘要の藏{蓮}仏だけが持つ一切の法の実体
  • 如来一切甚深の事{華}仏のみが究めている因果の大事
  • 宣示顕説{経}

仏性開顕(ぶっしょうかいけん)のプロセス?

「譬えば籠の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の集まれば、籠の中の鳥も出んとするが如し。口に妙法とよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う。」(法華初心成仏鈔)

「日蓮等が類並に弟子檀那、南無妙法蓮華経と唱うる程の者は久遠実成の本眷属妙なり。此の人の所居の土は久遠実成の本国土妙なり。」(授職灌頂口傅鈔)

「問う其義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱えて解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其味を知らざれども自然に身を益す。耆婆が妙藥誰か弁えて之を服せん。水心無けれども火を消し火の物を焼く豈覚り有らんや。」(四信五品鈔)

※耆婆とは、釈尊に帰依して外護をつくし当時医王とたたえられた耆婆大臣のこと成仏とは本門の一念三千の体得である。しかし、愚かな私たちは一念三千を正確に理解し、悟れない。「この一念三千も、我等、一分の慧解なし。」(開目抄)ともいわれておるので、南無妙法蓮華経の唱題による、「以信得入」「以信代慧」しか、これを会得する方法は無いようであるが、としても御題目を唱えさせて頂きさえすれば、お釈迦様からお釈迦様の悟りそのままの一念三千をお譲りいただけるのである。
 このように日蓮聖人によって、御題目を唱える宗旨が確立されたのだが、その事によって、迹門宗の理解し悟り、自己の劣心から仏性を見いだそうとする理の一念三千、つまり悟る一念三千・理の宗教から、素直な信行・信心によって、お釈迦様の悟りそのままを生きた現実・事実として譲られ与えられる一念三千・つまりは本門宗が確立されたと言える。ただ素直に仏と仏の悟りの当体を信じ、それが説かれている妙法に帰依信順して、南無妙法蓮華経の唱題行さえすれば救われ、成仏が可能であると示されたのである。その事こそが、従果向因つまり、仏界所具の九界の本門における修行と云うことである。まさしく御題目を唱えること即ち帰命するとは仏様の世界、つまり仏界に我等衆生も住まわせて頂き、一心に仏を見たて奉らんと欲して成仏を願うことなのである。

九 どの様に唱えればいいのか

日蓮聖人は「有智無知ををきらわず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」(報恩抄)と示され、専ら題目口唱が修行の中心であり、「他事」即ち経文を読誦することなども雑えてはいけないといわれており、四信五品抄では「専ら題目を持ちて余文を雑えず、尚一経の読誦だも許さず。」と明確に読誦などせず、他を雑えぬ一途な御題目こそが末法においては大事な修行法法であると御強調されている。

自行化他(じぎょうけた)の御題目

御題目を正しく口唱させて頂きさえしたら、「釈尊の因行果徳の二法」を我がものとすることが出来るのだが、そのためには微力でも仏様のお役に立てるようにとの心懸けが何より肝心である。「是の好き良藥を今留めて此に在く 汝取て服すべし。差えじと憂れうること勿れ」と仏が「如来寿量品」が説かれておられる事を人に伝えることこそ菩薩行である。これが「若し是の経典を聞くことあらん者は乃ち能く菩薩の道を行ずるなり。」(法師品)に通じることとなるのである。例え、この法華経を説いて聞かせる事が困難でも、御題目を聞かせるだけでも 「 聞法下種 」となると (法華初心成仏鈔)に 「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」と説かれているのであり、この事が自行に留まらず、化他即ち折伏の精神なのである。

この教えの大事な根幹(テーマ)は何か

 それは、「自分が如何に尊い存在であるかに気づけ」ということなので す。「我が如く等しくして異なることなからしめんと欲して」が仏の本懐であれば、「貴方は私のように尊き存在になり得る」が法華経のメッセージなのです。これを単純に捉える事なく、十界互具の一念三千の法理から正しく一切衆生皆成仏道の理を理解すれば、地獄、餓鬼、畜生界等をも包含するという現実を踏まえた人身観や世界観に基づく、確かな人生観を確立することが出来るでしょう。地獄や餓鬼道のような忌むべき要素の具えているのが人間であると理解した上で、なお未だ自らが自覚していない尊く確固たる存在としての仏性が我に具わっている実相を指し示されているのが法華経です。
 しかし、例えそのように示されようとも、愚かな我々凡夫には、その仏の真の尊さがよく理解できません。特に今は釈尊御入滅から三千年近く経た末法といわれる時代ですので、仏の御名も、その御教えにも触れたことのない者で溢れています。そのような人達にこそ、この事を伝えねば成りません。その大事を伝えること自体が大切な仏道修行の一つなのです。
 今生に命を結び、而も人間として生きることは稀で貴重な一瞬であります。この大事な時間を無駄に過ごしてはなりません。仏は私たちにこの尊き仏性を開き、示し、悟らせて、その仏の世界に導き入れるためにこの世に姿を現わされたのです。
 では、私達ははそのお教えを頂いて、いかに振る舞えばいいのでしょうか。
「ああなるほど、私とはその様に尊い存在なんだ。ならばもっと自分の思いを主張して、好きなように生きてやろう」としか思わないとしたらそれはまだ、御仏の本当の真意を理解できているとは言えないのかも知れません。

一心に仏を見たて奉らんと欲して

 今の私達は、少なくとも「一心に仏を見たて奉らんと欲して」仏を仰ぎ見ようとはしていないと言えるでしょう。しかし、実はこの様な反応はまだましな方で、この事にさえ無反応であったり、悪意を抱くのが末法の人々なのだと経文にあります。それでは折角の仏様と同じ尊き仏性が持ち腐れとなるばかりか、堕地獄の道筋を歩む結果となると説かれています。
 今こそ、仏様のご意志に基づいて、この世に弘めるお手伝いをさせて頂く時ではではないでしょうか。只ひたすら、あらゆる人に対して尊崇の念を持って、「貴方の存在は尊くかけがいのない存在で、いずれその事に気づき、久遠実成の釈迦牟尼仏がその尊さの根源だと解れば、きっと貴方も真の覚りの世界に存在する身となるでしょう」と告げることがその振る舞いと言えるのです。これが法華経の根本姿勢であり、その事は常不軽菩薩品という経典の中に説かれています。そこには不軽菩薩が「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」と道行く女人にも僧侶にもあらゆる人々に告げて、仏意を示されたことが説かれていますが、その様な行為こそが、真に人を尊崇尊重していることとなり、そこにこそ本来の平等があると示されたのが法華経の行者の理想とする行いすなわち「振る舞い」が示されているのです。
 これが私たち衆生にとっての一番大事な精神であり、見習うべき振る舞いとされ、これこそが、法華経の精神の実践であり、御仏の御心を伝える菩薩行なのです。
 そしてこれを、不軽菩薩の行といい、その大元の御教えが一念三千の法門であり、仏がこの世に出現せられた大目的なのです。

法華経を学ぶに際しての心構えは

 その法は智慧第一の舎利弗尊者にでさえ、その「意趣解り難し」と述べて、法華経の難信難解であることを予告されました。この法華経に対する心構えとして、我執・我慢に満ちた凡夫の智慧を捨てることを促されているのですが、現代社会は、自分の頭で考えることを奨励し、むしろ仏教でそぎ落とし解脱を目指した煩悩までも、個人のこだわりならばと許容してしまっています。そして、それが昂じて苦しみ喘ぐことになるようです。その延長線上で仏の教えも、小賢しく自分の思慮の中に矮小化して理解しようとするのですが、それではますます仏の「意趣解り難し」となってしまいます。門祖日隆上人は我が智慧を捨て素直なる稽古に励む宗旨として「無智宗」の宗名を説かれました。仏の教えとは、仏智を得ることもさることながら、人を救う功徳の重要性を説かれているのです。しかしお金が無ければ貧しいものを救えず、力が無ければその荷を背負うこともままなりません。故にそこに信仰により仏の叡智と功徳に拠るのです。仏の智慧を得るとき、凡智を捨て世と法門される。
 それは、コップに清水を汲み飲もうとすれば、まず器を空にして綺麗に洗うはずです。無量無辺、未曾有の法である法華経を修行せんとする我らは、小賢しき凡智を捨てて素直に御仏の智慧をいただく姿勢を整える必要があると考えます。

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